キリスト教の問題点について考える

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「最後のアダム」とは

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「最後のアダム」という言葉をご存知でしょうか。最後のアダム、とは、イエス様のタイトルの一つで、キリスト教の殆どの教派において共通の理解でもあります。根拠となったコリント人への第一の手紙を読んで見ましょう。

コリントⅠ書15:45-48

聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。

最初のアダムは神が地の塵を集めて作ったものであったが、最後のアダムは天の作られざる存在である、と説明されています。また、最初のアダムは蛇の誘惑に負けてしまったが、最後のアダムであるイエス様は荒野での誘惑に打ち勝ったのだ、とも説明されます。

しかし、過去の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でもご説明しましたように、聖書では「悪魔」を「神の手下」、もっとわかりやすく言えば、「神の属性の一部」として表現しているのですから、最初のアダムが神に試みられることは自然のことかも知れませんが、イエス様が神であると理解しようとするのであれば、それは奇妙なこととなってしまうでしょう。

僕は子供のころ、この「最後のアダム」というイエス様のタイトルを教わったとき、最初のアダムは、直接蛇に誘惑されたのではなかったけれど、イエス様は直接悪魔に誘惑されたと記されていることについてはどうなのだろうか、と感じたことを覚えています。

また、イエス様が最後のアダムとして、神でありながら人の世に顕現し、最初のアダム以来、人類を苦しめてきた原罪のくびきから、すべての人を等しく解放した、と定義するのであれば、未だ世界において戦争や貧困が絶えないのはどうしてなのだろうか、と考えたことも思い出します。

「最後のアダム」という考え方は、そう言われてみれば、という程度でいいのであれば、わかりやすく、また情緒的で美しいものであるかもしれませんが、論理的に正かどうかと言えば、ちょっと無理やりの感じがしますよね。

パウロ(や同行者)の手記は、福音書を取り巻く思想の流行が、一つの宗教としての安定を示す以前の状態で、それは、たとえばこんな風に考えてみてはどうだろうか、として示した、極端な一つの案に過ぎなかった、ということではなかったでしょうか。

そのような苦渋の痕跡を、とりあえずはお題目とばかりに盲信していては文化的に見て水準が低まるばかりだと言わざるを得ない、ということになるでしょう。

キリスト教の聖書解釈は、そういうところが多いです。