キリスト教の問題点について考える

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神は人の足を洗うか

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ヨハネ福音書に、「最後の晩餐」に先立って、イエス様がお弟子たちの足を洗われたという事跡が物語られえています。見てみましょう。

ヨハネ福音書 13:1-5

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。

 そして、次のような指導をした、とあります。

あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。

ほとんど、説明を要さない、よく意味のわかる箇所ではないかと思います。イエス様の教えを説こうとするのであれば、上から偉そうにものを言ってはいけないよ、まず、あなた方がへりくだって、その教えを実践して示しなさい、と言っているわけです。

前回の記事、

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

では、内村鑑三が、他人にイエス様の教えを説こうなどということは馬鹿げたことだ、そんなことをするよりは、まず自らがその教えを実践することだ。そうすればそれを人が見てその教えの正しさを知るだろう、と答えたことを紹介しましたが、内村は、福音書のこの箇所で、イエス様自身がすでにそのような指導をしている事を知っていたわけです。

受難の木曜日の典礼として、色々な教会でその教会の伝統的な洗足式が行われていますが、正教会におけるそれは、おそらく最も荘厳で感動的なものかも知れません。見てみましょう。

いかがでしょうか。まさに「目を奪われる美しさ」であることをご納得いただけたのではないでしょうか。

しかしいかに美しくとも、それは抽象的な行事としての様式化された美しさに過ぎないのです。内村が「そんな馬鹿げたこと」と言ったのはまさにこのことだと思います。

人に必要なことはすべてのこだわりを捨て去ってしまうことです。人の足を洗うものは神ではありません。「この人は神である」というような思いであっても、結局は実をなさない儚いこだわりでしかないこと、自分自身に置き換えて理解するのであれば、教えるのではなくて、まず自らおこなうこと。イエス様が福音書を通して教えておられるのはこのことです。