キリスト教の問題点について考える

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聖書は誤りなき神の言葉であり得るのか

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聖書の無誤性 - Wikipedia に、

聖書の無誤性(せいしょのむごせい、英語Biblical inerrancy)は、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという聖書の教理の前提である。この立場では「歴史と科学の分野を含んで完全に正確」であり、誤りの部分はないと言われる。無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、歴史や科学の分野には誤りがあるとする聖書無謬説(限定無誤性、部分的霊感説)とは区別される。ただし、部分霊感説と無誤性は対立するが、無謬性と無誤性は対立しない

という説明があります。聖書には、何一つ間違いの表現は存在しない、というわけですが、教派によって理解が異なるようです。同Wikiによれば、カトリックは、最終的な権威を教皇の無謬説に置き、正教会公会議の決定に置いている、と説明されていて、聖書そのものが無誤であると定義するのはプロテスタント福音派だけであることを明らかにしています。

僕が所属していた教会はプロテスタントで、旧教派は組合教会ですが、聖書が無誤である、と説明された記憶はありません。

つまり、新旧訳聖書66巻が無誤である、と定義しているのは、プロテスタント福音派だけであって、その他の教会は、聖書が誤りを含んでいるかいないかという考察そのものに意味を置いていない、ということになるでしょう。あえていうのであれば、聖書といえど人間の著作物であって、完全なものではない。完全なものとは神ひとかたのみであると理解している、ということになるでしょう。仮に聖書に瑕疵があったとしても、神にはないのだからそれでよい。これが普通のキリスト教の考え方であるわけです。

聖書には誤りがない、と言い出したのはマルティン・ルターなのでしょうが、彼は、カトリック教会が教会の権威を悪用することを批判して、教会や教皇であるよりも、聖書に信仰生活の規範を置くべきだ、と言ったわけであって、聖書にひれ伏せ、と主張したわけではないと思います。

また、「批判」として、次のような引用があります。

批判者は聖書の無誤性の教理は、歴史的に教皇無謬説の代用品だったという。「マルティン・ルターが無謬の教皇の権威を打倒した時に、彼は新しい権威、無謬の聖書を作り出した。これは一般に宗教改革の教会で受け入れられた。そして聖書はプロテスタントにとって紙の教皇になった。」

そもそも、「新約」と「旧約」が存在する事自体、観察結果そのものが正しくなかったから、ということになるのではないのでしょうか。

聖書に誤りがないのであれば、イエス様本人が「神殿を破壊されても三日後には再建できる」と発言しているのですから、「キリストの体」を自負するキリスト教徒は、いますぐエルサレムへ馳せ参じてイスラームから岩のドームを奪還し、唯一神殿を建て直さなければならないことになってしまいます。

福音派が聖書無誤を主張するのは、結局什一献金の根拠作りのためでしょ、というのは妄想に過ぎないのでしょうか。