キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

什一献金アンケート結果

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christian-unabridged-dict.hatenablog.com

2019年1月25日の記事で、「教会から十一献金を要求されたことがありますか?」というアンケートをお願いしました。結果は、サンプル数が21で、最も多かったのが福音派教会、ついで単立教会、その他、日本キリスト教団カトリック教会、正教会、という順でした。

教会は、信徒に什一献金を行わせようとして、旧約の十二小預言書の一つ「マラキ書」の記述を引用します。読んでみましょう。

マラキ書 3:8-10

人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。あなたがたは、のろいをもって、のろわれる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

カネの好きな牧師は、この、恐ろしい命令とも取れる文章を引き合いに出して、信徒からカネを取り上げようとするわけです。

次に、Wikの「マラキ書」から引用してみましょう。

当時、捕囚から帰還した頃は市民権の保証がなく、旱魃や大量発生したイナゴのため凶作が続き、更には周囲に敵意を持つ民族が居住していたため、非常に衰退していた。そのような状態でイスラエルの民は神殿を再建した。しかし、エルサレムはペルシアからも独立出来ず、ハガイ2:2で語られたような約束された栄光を見てはいなかった。

また民の中の資産家はそれを増やす手段を選ばず、軽率な離婚や異邦人との結婚などを行っていた。祭司はそれを止めようともせずにむしろ助長させていた。平気で皆が律法を破るようになっていたのである。

このように祭司の堕落[1]や、軽薄な雑婚・離婚[2]、捧げ物の不履行[3][4]などが蔓延していた。

上記のようにネヘミヤがエルサレムに不在で人々が混乱に陥っている際にマラキがメッセージを語ったのである。しかし鈍感になっていた民は繰り返される預言に対して「どのように」と繰り返した。(マラ1:2他、多数)その民衆を呼び覚ますために預言者が遣わされたのである。

これを読むと、「十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。」と言うところの意味は、収穫物という対価であるというよりは、イスラエルの神、またイスラエル国家への忠誠と信頼を十全にせよ、という意味であることが理解されるでしょう。

キリスト教とは、613もある律法の細目を一つひとつ全て頑なに守ろうとするユダヤ教の縛りから離れて、イエス様によってもたらされた新しい、しかも真実の希望へと目を向ける神の民である、と自認している人々の集まりであるはずです。旧約の律法の規定・制約を示す言葉尻にうろたえる必要は無くなっているわけです。僕は高校の宗教の時間に、613という数字を「ムイミ」という語呂合わせで覚えるように教えてもらったことを覚えています。

つまり、その箇所はカネのことではなくて、実際には、異教の習慣や考え方に同調して安易な生活を選び、堕落しないように注意しなさい、という意味が書かれているのです。

よろしいでしょうか、キリスト教の教義は厳しく、私や家族の生活を苦しめる、と感じている人は、キリスト教の本質を正しく学ぼうとしないからそうなるのです。はっきりいいますが、聖書を利用して信徒からカネをむしり取ろうとする牧師は下劣な詐欺師に過ぎません。悪なのです。悪から遠ざからず、言われるがままに悪に利するものもまた、悪だということを理解して下さい。