キリスト教の問題点について考える

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「神の言葉」とは

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jp.vonvon.me

エス様には、「神の子羊」、「最終のアダム」、「白馬の騎手」など、様々なサブタイトルがありますが、「神の言葉」もその一つです。ヨハネ福音書を読んでみましょう

ヨハネ福音書 1:1-5

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

この「言」がイエス様のことである、と理解しているわけです。キリスト教は、自分たちが信仰している神が「三位一体」の神であって、父と子と聖霊、という風に分割して理解しようとしています。父とはこの世の真理そのものであり、子とは父から人へのメッセンジャーであり、聖霊とは父または父と子から発出されて人に及ぶ力のことである、というわけです。次に創世記を読みましょう。

創世記 1:1-5

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

地に光を及ぼそう、という発想が父であり、「光あれ」 という言葉が子であるイエス様であり、「すると光があった」という結果を及ぼした力が聖霊である、ということになるでしょう。回りくどいですね。

しかし、イエス様が「神の言葉」だと言うのであれば、次のような言葉もまたイエス様そのものである、ということになるでしょう。

申命記 20:10-14

一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主が賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。

いかがでしょうか、男は皆殺し、女子供は家畜扱いです。この命令は「神の言葉」であるわけですから、つまりイエス様ご自身である、という理解にもなるはずです。

ツイッタに、キリスト教の神は、レイシスト(差別的な民族主義者)として表現されているに過ぎないのに、牧師や神父がなぜそんなものを有難がって拝むのか、その理由がよくわからない、という書き込みがありましたので、次のように答えてみました。

キリスト教の本質といういか、精神性を極めれば、コミュニズムになると思うのですが、残念ながら、実態としてはレイシズムファシズムという安直かつ醜悪なものでしかありませんよね。だからナチスに与したのです。成熟する必要性を見いだせていないわけです。

すると、さらにレスを下さいました。もしイエス様が旧約時代の差別的発言を反省し、あれは間違いだったと謝罪するのであれば、キリスト教も宣教されてしかるべきと許可できるかもしれない、というご意見でした。

なるほど、と思いました。確かに、神が神としての専横的な実践を人間の社会的見地に立って反省するのであれば、それは確かに有用な指標となり得るのかもしれません。

しかし、残念ながら、イエス様のレイシストとしての性質は反省どころか、全く衰えてはいません。むしろ力が増している、と言って間違いでは無いでしょう。

次に、Wikiの「ニカイア信条」から原ニカイア信条の本文を引用してみましょう。

我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。

いかがでしょうか。イエス様は「生ける者と死ぬる者とを審く」存在であり、そのイエス様を信じる公同の教会とは、彼らの偏向的な思想に賛同しないと公言するものを「呪う」存在であると自ら宣言しているのです。

つまり、過去に正しくなかったことがあったとは考えていませんよ、と言っているわけです。神も、信者も、指導者も、何一つ過ちは犯していないし、反省の必要も感じてはいない、ということですよね。人は、その必要を感じていたとしても、他の人に促されてはなかなか謝罪できないものです。まして感じていないのですから言わずもがなでしょうね。

それと、余計なことかもしれませんが、あなたの引用なさっているその牧師さん、特に発言内容の意味がよくわからない牧師さんだと思います(笑)。