キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

キリスト教徒は何から救われたいのか

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血の上の救世主教会(ハリストス復活大聖堂)

wondertrip.jp

 

キリスト教徒は、彼らの信仰対象であるイエス様を「救い主」であって、自分たちを救い出してくれる存在であると理解しています。では、一体何から救い出してもらう必要があるのでしょうか。

何からの救いなのか」というサイトがありましたので、引用しながら考えてみましょう。原文は句読点毎に改行されているのですが、そのままでは少し読みにくくなってしまいますので、少々改行を省略しながら引用します。

キリスト教の教会でよく耳にする、”救われました ”という言い方があります。では、何からの救いなのでしょうか。何かの困難から救われたのでしょうか。悪化していた病気から救われたのでしょうか。経済苦からでしょうか。災害からでしょうか。差し迫っていた危険からでしょうか。苦しんでいた人間関係からでしょうか。どれだけのクリスチャンが、聖書の言うところの、”何からの救いなのか ”を、正確に理解しているでしょうか。

 まさに今考えようとしている事ですよね。

イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味との理解なしに、”救われました ”・・・と言うならば、それは、何か混沌とした状態から抜け出した・・・という理解程度なのかもしれません。教会の礼拝では、「使徒信条」を会衆が唱和することになっています。しかし、教会の礼拝における説教で、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされないなら、その人の信仰は、キリストなしで、十字架なしで、神の啓示なしで、自分の判断によって神をとらえ、理解することになりかねないし、その神は、罪の赦しからも、”神の裁きからの救い ”からも、かけ離れたものになるに違いありません。使徒信条の内容と意味とを理解しないまま、皆と一緒に唱和することもありえます。

使徒信条」の中に、何から救われるのか、の「何から」が説明されているよ、といっているのでしょうか。

その、神との和解の出来事こそ、神への罪の赦しの出来事こそ、イエス・キリストがご自身の命をささげることによって、罪の代価を命をもって支払ってくださったという出来事こそ、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

「 実に、人は心で信じて義とされ、 口で公に言い表して救われるのです。」(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・新共同訳聖書)

やがて来る神の怒りから、私たちを救ってくださるお方こそイエス・キリストなのです。神ご自身のひとり子イエス・キリストの生と死と復活において ”備えてくださった救い ”なのです。神との和解の出来事なのです。

「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新約聖書ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳聖書)

どうやら結論としては「神が、神の怒りから人間を救う」のだ、ということになるようですね。それならば、そもそも神が怒らなければよいのではないかと思うのですがどうなのでしょうか。

私たち人間は、だれひとりの例外もなく、神にたいして負債を負っています。生まれながらに神にたいして罪を負っているのです。私たちが、どのようにして罪人とされ、どのようにして罪を赦され、どのようにして罪から解き放たれるのか・・・・。これらの内容を理解しないまま ”救われました”では、その救いは、真実の救いではないかもしれません。

「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)

救いには「真実の救い」と「真実ではない救い」がある、と説明しています。「神の怒り」という災害からの「神自身による救い」がある、と言った、その同じ人が、人間の理解の度合いによって、その救いには、真実の救いとそうでない救いがあるとも言っているわけです。

このサイトのこの文章が、即ちキリスト教の救いを正確に表現している、とは言えないかもしれませんが、かと言ってさほど外れているとも言えないでしょう。概ねこのとおりだと思います。

いかがでしょうか。キリスト教が存在する根本理由ともいうべき重要な「救い」の必要理由がこのような詭弁に過ぎない、ということは、実に由々しいことだと思います。

結局、宗教の存在する理由は、架空の観念の上に成り立っているのです。感情的な側面を抜きにしては成り立たない。これが現実なのです。