平家物語の巻一の第八に、清水炎上というくだりがあります。読んでみましょう。
山門の大衆六波羅へはよせずして、すぞろなる清水寺(せいすいじ)におしよせて、仏閣僧坊一宇も残さず焼きはらふ。これはさんぬる御葬送の夜の、会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし。清水寺は興福寺の末寺なるによってなり。清水寺焼けたりける朝、
「や、観音火坑変成池はいかに」
と札に書いて大門の前に立てたりければ、次の日また、
「歴劫不思議力及ばず」
とかへしの札をぞ打ったりける。
船岡山での九条天皇の葬儀に先立って、南都の興福寺の僧兵と延暦寺の僧兵との間に「額打ち論」と呼ばれるひと悶着があった後、この時の恨みを晴らすため(逆恨みなんですが)、延暦寺側が、当時、興福寺の末寺というだけで、この件には何の関係もない清水寺に火を放って焼いてしまいました。延暦寺の僧兵は、自分たちで焼いておきながら、その翌朝、清水寺の山門に、
「おや、観音様にお願いすれば火焔が燃え盛る穴も、たちまち清澄な池に変わるというのに、このありさまはどういうことだ」
と、観音霊場でもある清水寺への皮肉を込めた高札を立てたのです。すると、
「何を言っているのだ。観音様の力は人の感覚で知ることができるようなものではない。そんなことも知らなかったのか」
とやり返す高札が掲げられました。
いかがでしょうか、宗教というものが人の心に真の意味での作用を及ぼすことは、本当に稀です。「観音火坑変成池」の「火坑」とは煩悩の、「池」とは悟りの境地を暗示しています。そんなことはよくわかっているはずなのに、法華経の一節を引用しながら、知識自慢を兼ねた皮肉を言っているわけです。やられたほうも、そちらが法華経でくるならこちらも、とばかりに、法華経を持ち出して応報しています。三宝の一つ、仏法を投げ合って言葉遊びにしているわけです。
キリスト教徒も同じようなことをしています。ネットをみていますと、聖書の一片を引きちぎっては投げつけて、人にダメージを与えることを楽しみにしている人がたくさんいます。異言だ、ラプチャーだ、聖餐がどうだ、と、どうでもいいようなことにばかりに興味を惹かれて、本質は置き去りにしたまま一顧だにする気もない。
まあ、そんなものなんでしょうね(笑)。