水引はよくご存知だと思います。お祝いごとであれば赤白、弔事であれば黒白、など、様々ありますが、上に引用したサイトでも説明されているように、関西では仏様に関する金封には、お寺への法事のお礼であれ、通夜、葬儀など、葬礼での遺族への見舞金であれ、必ず黄白の水引の掛かったものを用い、黒白の水引のものは用いません。慶事用の水引には赤白の他に紅白という色合わせのものがありまして、これは一見すると黒白のように見えますので、これと間違わないように、であるとか、黒白というのは「こくびゃく」ともよみますので、弔事には適当でない、という考えもあり、また、古来日本では黒と白の組み合わせは、黒紋付きに白い襟、に見るように、どちらかといえば、改まったハレの色使い、とみなされることからも、弔事には用いない、という考えがあります。幔幕も黒白ではなくて浅葱と白が使われる場合がほとんどのようですね。
葬儀といえば、キリスト教徒は仏式の葬儀を忌み嫌います。どうやら、日本の仏式の葬儀は物故者を崇拝するところの儀式である、と教会で教え込まれているようです。極端なプロテスタント教会だけでそのような傾向が見られるのかと思っていたのですが、知り合いの葬儀に参列したとき面白いことがありました。葬儀社の会館での式だったのですが、焼香の列に並んでいますと、少し前に並んでいた若い女性が、焼香のときに、左手に持ったロザリオを遺影に向かって振りかざし、遺影を睨みつけながらゆっくりと右手で十字を切ったのです。そのご遺族に弔意を示すこともせず、足早に退出して行きました。ロザリオに十字を切る習慣といえばカトリックですが、カトリック教会でもそのような迷信を信者に植え付けているということなのでしょうか、ちょっと驚きました。
そんなに葬式が恐ろしくて、人としての常識を失した行動をせざるを得ないというのであれば、そもそも葬儀に参列しなければいいと思うのですが、どうなのでしょうね。葬儀こそ意思表示ができるチャンスだ、とばかりに非常識なことを好んで行っているかのようにも感じます。
しかし、日本語を話して生活していく以上、だれであれ、仏教に依拠することなくすごそうとしても、それは無理というものです。次のような普段何気なく使っている言葉はすべて仏教用語です。
- 愛嬌(あいきょう)
- 挨拶(あいさつ)
- 阿吽(あうん)
- 足を洗う(あしをあらう)
- 安心(あんしん)
- うろうろする
- お陀仏(おだぶつ)
- 億劫(おっくう)
- 親玉(おやだま)
- 玄関(げんかん)
- 正念場(しょうねんば)
- 上品(じょうひん)
- 刹那(せつな)
- 醍醐味(だいごみ)
- 旦那(だんな)
- 内緒(ないしょ)
- 奈落(ならく)
- ひどい
- 蒲団(ふとん)
- 方便(ほうべん)
- 冥利(みょうり)
- 利益(りえき)
- 喫茶(きっさ)
- 食堂(しょくどう)
- 果報は寝て待て
- 娯楽(ごらく)
- 無事(ぶじ)
- 自業自得(じごうじとく)
- 所得(しょとく)
- ちゃら
- 工夫(くふう)
- 人事(じんじ)
- 一大事(いちだいじ)
- 頑張る(がんばる)
- 差別(さべつ)
いかがでしょうか。挨拶、無事、安心など、聖書でもよく使われている言葉がありますよね。日本語を話す、ということは即ち、仏教の精神を受諾していることの告白でもあるのです。
葬式を怖がるより前に、仏教用語を使わずには生活出来ない、という事実に恐怖してみてはいかがでしょうか(笑)。