キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

聖職者の仕事

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キリスト教で「聖職」とは、カトリック教会の助祭以上、正教会輔祭以上の肩書を有する教役者であって、プロテスタントの牧師は「聖職」ではありません。学校の教師を「聖職」という場合は、文学的な概念でいうのであって、そういう意味であれば、プロテスタントの牧師も、正式な名称は「教師」である場合が多いことでもありますので「聖職」である、ということは大間違いではないかもしれませんが、キリスト教でいわゆる「聖」を厳密にするのであれば、牧師は「聖」である職業とは言えない、ということになるでしょう。プロテスタント教会に「聖職者」はいません。牧師は信仰生活上、信徒と同格である。このことを知らない人が多いように感じます。だからといって、尊敬する必要は無いと言うわけではないのですが、そういう点においてもカトリックや正教とは違うのだ、ということです。つまり、プロテスタントは、人間の職業に「聖」である指標を設けて、その職業に就いたものを神のように崇めてしまう、という危険を避けているわけです。

さて、神父や牧師と言われる人たちの仕事とは何でしょうか。中には学校の教師や病院の医師などを兼務している、という方もおられるようですが、大半は神父だけ、牧師だけが仕事であるという人です。そういう人たちにとって、実際、仕事と言えることは、日曜日の礼拝だけです。一週間のうち、拘束時間は、せいぜい週に二時間、一ヶ月でわずか八時間です。カトリックの司祭であれば、毎日ミサを立てる義務がありますが、平日の読唱ミサなんてせいぜい三十分程度のものですから、一般的なサラリーマンに比べれば、通勤する必要も無いのですから楽なものです。

中には司祭、牧師の不足のせいで、いくつかの教会を巡回する人がいるかもしれませんが、それでも、サラリーマンが、製造や販売のノルマに追われて仕事をすることに比べれば楽なものでしょう。

実際、Twitterを見ていると、神父だ、牧師だ、と自称する人物が四六時中発言しています。またこの神父がつまらない冗談言ってる、この牧師はまた聖書を使った皮肉で人を嫌な気持ちにさせてる、という感じです。よほど暇を持て余しているのでしょう。呆れたものです。そういうことがしたいから神父や牧師になったのでしょうけどね。そういう意味では大成功、人生の勝ち組だと胸を撫で下ろしているのでしょう。

そんなTwitterで、カトリックのなんとか枢機卿が、幼児虐待事件の当事者として裁判でクロ判決を受けたとかで、その枢機卿はきっと冤罪に違いない、枢機卿サマは上訴された、と発言したカトリック信者がいましたが、枢機卿を起訴するなんて、よほど真っ黒でなければ中々できないことだと思うのですがどうでしょうか。まあ、よほど暇なんでしょうね。暇で暇で仕方ないので幼児を性のはけ口にする。汚らわしい限りです。

冤罪と言いますが、冤罪なら冤罪で別に構わないじゃないですか。その人の神は、全人類の罪過を身に負うために、わざと冤罪を着せられて死刑になったわけでしょう。その神に倣って、自分たちの組織の犯罪を、冤罪であれ何であれ償うのであれば、その有様を神が見て評価するのではないでしょうか。それなのに、なぜ上訴しなければならないのでしょうか。

実際は、神父や牧師なんて表向きの見栄えばかり、中身なんて皆無。結局楽して生きて行きたいだけで、神がいようが空想だろうが別にどちらでもかまわない。そんなのばかりですよ(笑)。