キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

重荷を担う者の休息とは

f:id:christian-unabridged-dict:20190128211607j:plain

www.biblestudytools.com

 

マタイ伝11章に、有名な「重荷を担う者の休息」という件があります。見てみましょう。

マタイ伝福音書 11:28-30

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

なんという甘美な慰めでしょうか。借金返済で苦しんでいても、人間関係の軋轢に苦労していても、イエス様の教えを学んで理解さえすれば、全部チャラにしてくださるのだ、と言っているように聞こえます。

たとえば、

www.hanamaki-christ-church.jp

というサイトでは、この箇所の意味するところを、つぎのように纏めておられます。

 私たちは生きている限り、何らかの重荷に出会わざるを得ないのかもしれません。生きている限り、心配事、思い煩いは尽きないことでしょう。ある課題が解決しても、また新しい課題に直面してゆくことでしょう。
 疲れた時、重荷にあえぐ時、その都度、私たちは「休んでよい」のだということ。神さまの愛の中で、心ゆくまで「休んでよい」のだということ。そしてその愛の中であなたが自ら、再び立ち上がろうとするとき、主が「共にその重荷を担ってくださる」のだということを、ご一緒に心に刻みたいと思います。 

つまり、何らかの外的要因によって生じた重荷から、神様が解放してくださるのだ、ということが説明されている、という理解ですね。

しかし、借金は、なんとなく、いつの間にか消滅するようなものではありません。少しずつであろうと、利子を含めて全額返済するまではなくなりません。また、人間関係のいざこざも、合理的な具体策を講じるまでなくなりはしないのです。何を信じようと信じまいと、それは同じことです。

でも、この箇所を読むと、イエス様の教えを学べば重荷がなくなると書いてあるよ、と思われるでしょう。もう一度本文を読んで見ましょう。

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

これは、実際には、次の様に解釈するべきです。

私の教えを聞いて理解し、すべての余計なもの(欲望)を捨て去って、それらから解放されなさい。 

つまり、重荷とは、神が超自然な力で魔法のように無くしてくれるのではなくて、好んで背負い込んだ重荷を負っているもの自身が、自分で捨て去るものだよ、ということを言っているわけです。