キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

ぶどう園の例え話

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マタイ伝福音書に、「ぶどう園のたとえ話」という箇所があります。ぶどう園の労働者が、労働時間の長短に関わらず、一様の賃金しか貰えなかった、というお話です。

雇用主の言い分を見てみましょう。

マタイ伝 20:9-16

そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

福音書で、イエス様は無神論を主張 しています。僕はそのことをこのブログを通して説明していますが、マタイ伝のこの箇所ほど、そのことがはっきり分かる箇所は他にはありません。

まず、天の国とは、「ぶどう園で働く」ことであるような、日常に存在するのだよ、と説明していることを指摘できるでしょう。天の国は空の上にあるのではなく、死後に現れる夢の世界でもない。今生きている現実の世界のことを言うのだよ、と説明しているわけです。

この箇所で、「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という表現が、話を難解にさせている要因になっているように思いますが、これは、志を起こしてイエス様の教えに従って行こう、と決心した順番ではなくて、

マタイ伝 19:29

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。

にあるとおりにしたもの、持ち物、つまり、欲望を捨て去ったものの順番になるのだよ、と説明しているのです。

その結果何が得られるのか、それが、神と全く同じ価値観であり、これこそがキリスト教徒の求めているもの、一人ひとりにとっては「神成」で、そのような人々による社会を「神の国」と呼ぶわけです。

「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」の箇所と、「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。」を分割して解釈しようとするから難解になってしまうのであって、要するに、「捨てれば分かるよ」と言っているだけなのだ、ということなのです。