キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

空の鳥と野の花

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過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

でも引用したのですが、もう一度、空の鳥と野の花の説教を見てみましょう。

マタイ伝 6:26-29

空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

この箇所は、上で引用した敬和学園の学長のような、鳥や花でさえも生きているのだから、人間であれば、当然、神がより保護してくれるのだから心配するな、と言っているのだ、と解釈するのがほとんどのように思うのですが、残念ながら違います。そのような解釈では、人間も、鳥や花のように働かなくても、別にかまわないんだよ、と言っていることになってしまって、支離滅裂となってしまいますよね。

そうではなくて、名誉や富貴、飽食、淫蕩を求めなくとも、人は生きて行けるのだよ、ということを言っているのです。鳥や花はどうか、見てみなさい、というわけです。何も求めなくても花は自ずから美しいし、鳥も飢えることはないではないか、美しさや満足とは、知識や財産の多寡ではなく、人間の内面の問題を言っているのだ、と教えているのです。

福音書を通して、イエス様は、何度も「持ち物を捨てなさい」と諭しています。この箇所も、空の鳥や野の花を見て安心しろ、と言っているのではなく、かれらのように、持ち物を捨てなければ成長できないよ、と言っているのです。

福音書には、仏法のエッセンスが込められている、ということがおわかりでしょう。煩悩を滅却すれば、真如が見える。宗教の教えとは、根底で一つに繋がっている、ということです。死後天国か地獄か、なんていうことは、物事の本筋では無くて枝葉であり、生きていない話の進め方に過ぎないのです。

そうではなくて、どう生きるか、どのような社会を目指すのか、ということだと思います。