キリスト教の問題点について考える

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偶像崇拝が禁じられた理由

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キリスト教偶像崇拝を禁じている、という理解が一般的でしょう。「モーセの十戒」を確認してみましょう。

  1. 主が唯一の神であること
  2. 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
  3. 神の名をみだりに唱えてはならないこと
  4. 安息日を守ること
  5. 父母を敬うこと
  6. 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
  7. 姦淫をしてはいけないこと
  8. 盗んではいけないこと
  9. 隣人について偽証してはいけないこと
  10. 隣人の財産をむさぼってはいけないこと

確かにありますね 。第2に「偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)」とあります。しかし、第1を見ると「主が唯一の神であること」とあります。ということは、主が唯一の神であると理解しながらも、偶像を作ったり、偶像を崇拝したりしてしまう場合が、実際にあったのだろう、ということが想像できます。

どういうことなのでしょうか、あまり長々と説明しても意味がありませんので、結論だけ申し上げますが、聖書の言う「偶像」とは、「異教」、つまり、政敵である近隣諸国のことを示しているのです。

聖書には、イスラエル偶像崇拝を禁じられた原因が示されています。少し長いですが引用してみましょう。

列王記 11:1-13

ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。主はかつてこれらの国民について、イスラエルの人々に言われた、「あなたがたは彼らと交わってはならない。彼らもまたあなたがたと交わってはならない。彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせるからである」。しかしソロモンは彼らを愛して離れなかった。彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。ソロモンが年老いた時、その妻たちが彼の心を転じて他の神々に従わせたので、彼の心は父ダビデの心のようには、その神、主に真実でなかった。 これはソロモンがシドンびとの女神アシタロテに従い、アンモンびとの神である憎むべき者ミルコムに従ったからである。このようにソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのように全くは主に従わなかった。そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。彼はまた外国のすべての妻たちのためにもそうしたので、彼女たちはその神々に香をたき、犠牲をささげた。
このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。ただし、わたしは国をことごとくは裂き離さず、わたしのしもべダビデのために、またわたしが選んだエルサレムのために一つの部族をあなたの子に与えるであろう」。

周辺の諸国と戦争をし続けるよりは、同盟を結び、文化も人も交流すればいい。国を開いて国交を固めよう。そう考え、主要な貿易相手国の子女を娶って、国交を盛んに行った結果、ソロモンの子の代には、イスラエルが弱体化してしまい、南北に分裂してしまう原因となって行きます。

このことを、「偶像崇拝」と言って抽象的に戒め、近隣の異教徒は偶像を崇拝しているような次元の低い奴原ばかりだ、と蔑んでいんるわけです。

世界史を見れば解りますが、そう言って蔑まれた異教徒のほうが実力としては上で、後に、結局イスラエルという国家は消滅させられてしまいます。

これは、ソロモンの時代のイスラエルに特有な事情であり、現代の日本には当てはまらない事柄である、ということになってしまうでしょう。だから、カトリックや正教が画像や塑像を聖堂に安置して尊崇することは偶像崇拝だ、などと的外れな批判を展開するようなことが起きるわけです。

「現代で言えば」などと言って、何でも無理やり当てはめる必要はありませんよ、ということです。仏教徒、というか、日本人の葬儀に出席すると、偶像崇拝したとみなされて、神に罰せられる、と思い込んでいる、あるいはそいう思い込ませようとしている教派があるようですが、仏像は偶像ではありませんし、葬儀に参列する人は、故人を礼拝するために集まっているわけでもありません。そんなことぐらい、説明しなくてもわかりますよね。

プロテスタントは、カトリックを「行為義認」と言って嘲笑していますが、それでは「行為不義認」でしょう。そんな考えの中には、神が不在だと嗤われてしまいます。

実際、神自身が、イスラエルの神を礼拝するためであるならば、造形物を作成するように命令しています。引用しましょう。

出エジプト記 25:17-22

また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。また二つの金のケルビムを造らなければならない。これを打物造りとし、贖罪所の両端に置かなければならない。一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に造り、ケルビムを贖罪所の一部としてその両端に造らなければならない。ケルビムは翼を高く伸べ、その翼をもって贖罪所をおおい、顔は互にむかい合い、ケルビムの顔は贖罪所にむかわなければならない。あなたは贖罪所を箱の上に置き、箱の中にはわたしが授けるあかしの板を納めなければならない。その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。

旧約聖書では、天使は神の象徴であって、神自身が天使の姿で人に現れる、という箇所がいくつかあります。つまり、ケルブは神を表現しているのであって、この箇所を読めば、神は神の造形化を一切禁じているわけでは無い、ということが理解できるでしょう。宗教は全て「偶像を崇拝する文化」なのです。

聖書は、ある一節だけを抜き出しても、その直接の言葉の意味だけから本意を導き出すことはできません。「偶像崇拝の禁止」とは、「偶像を崇拝すること」を禁じているわけではないのです。