キリスト教の問題点について考える

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「求めよ」とは

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ティベリア 西修二郎

 

エス様は、山上の説教において、次のように言われました。

マタイ福音書 7:7-8

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

この箇所を読んだクリスチャンは、たいていの場合、ほしいものがあるときは、ほしい、ほしい、と念じよ、物を失くしたときはよく探せ、試験を受けるときには、しっかり試験勉強をせよ、そうすれば神が助けてくださるのだ、という教えだな。

という程度の理解しかしないでしょう。しかし、おそらく既にお察しのとおり、そういうことを言っているのではありません。この説教の意味するところは、

「何を求めればいいのか、を考えながら生きていく自分自身でありなさい」

ということです。主体は神ではなくて、あなたがた一人ひとりの内面にあるのだよ、と言っているわけです。

一から十まで丁寧に説明しないのが聖書の特徴ですが、とても重要な事柄が述べられている箇所ですので、引き続いて説明が述べられています。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

親は子どもには良いものを与えるもの。たとえ悪人であっても子どもに悪いものは与えないだろう、それが人間の自然な行いだ。しかし、自分自身のためには、良いものを選ぶことをしなくなってしまいがちだから注意しなくてはならないよ、というわけです。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

しかし、ただ待っていてはだめだよ、肝心なことは、あなたがたが、自分自身で考えて、良い社会を実現するためには何を求めればいいのか、を考えながら生きていく自分自身であることを望んで、それを実行しなくてはならない。律法や預言者が言っていることは、つまりこのことなんだよ、と教えているわけです。

なんだ、そんなこと当たり前じゃん、そんな程度の解釈でいいなら教会なんて要らないし、別に聖書も読む必要ないよね、と思われたでしょうか、実はそのとおりなんですよ(笑)。