ご存知の通り、新約聖書には福音書が四つあります。しかし、実際にはもっとたくさんの福音書があったのです。
などの福音書があったことが伝えられている、と説明されています。
各リンク先をお読みになれば判るとおり、正直言って現行の四福音書と比べてみても、それほど顕著な差があるとは思いにくい内容です。似たりよったりなのです。
例えば、「ペトロによる福音書」の説明
2人の天使に支えられた(たぶん)イエス・キリストが墓から出てくる後から、十字架が付いてくる。天からの声「あなたは、(冥府で)眠っている人々にも宣教しましたか」に、十字架が「はい」と答える。
十字架が自分で墓から歩いて出てきて、天の声に「はい」と答えるなんて、荒唐無稽、と感じるでしょうが、現行の福音書には、墓の蓋が開いていて、天使が座っていた、と記されているし、イエス様の洗礼のシーンでは、
また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
と記されていることも事実です。十字架が墓から歩いて出てくる程度のこと、ほとんど同じレベルだと思います。もしこの福音書が正典として採用されていたら、キリスト教のシンボルである十字架には足が付いていたことでしょう。
トマスによる福音書の記述を読んでみましょう。
7 イエスが言った、「人間に食われる獅子は幸いである。そうすれば、獅子が人間になる。そして、獅子に食われる人間は忌まわしい。そうすれば、人間が獅子になるであろう」
簡潔に書かれていますので、懇切丁寧で過剰に説明的な文章を読み慣れている現代人には直感的ではありませんが(すべての聖書で同じことですが)、これは、獅子が人間に、あるいは人間が獅子に変身する、というようなことを言っているわけではありません。それぞれ、食われれば消化されて、食った者の要素の一つに変化するだけだ、ということを言っているのです。
77 イエスが言った、「1 私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
2 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」
過去の記事「キリスト教と三宝」で申し上げましたが、三位一体の「子」であるイエス様を仏教の三宝で言い表すのであれば、「悟った人(仏陀)」である「仏」に相当するでしょう。そして、トマス福音書のこの記述を読むのであれば、動物にも植物にも、土であれ空であれ、また、たとえお釈迦様を殺そうと企んだ提婆達多にさえ仏性は存在するのだよ、と教えられたお釈迦様の教えが思い出されます。
なぜ、これらの福音書が排斥されたのか。それは、政治の道具として利用しやすいものではなかったからです。
このブログを読んで、キリスト教を仏教と比べるな、と憤っているクリスチャンがいるようですが、残念ながら、それは逆です。歪められて本体の面影さえ判然としなくなったポンコツ思想は、仏教に例えなくては本来の意味を知ることができなくなってしまっているわけです。