キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

「この杯」とは何か

f:id:christian-unabridged-dict:20180701130212j:plain

Gethsemane

 

マタイの福音書 26:39

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

 マタイの福音書 26:42

また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。

「この杯」とは何のことでしょうか。たとえば

「この杯」が意味するもの - 牧師の書斎 というサイトでは、

エスと弟子たちが過越の食事をしたことが、同じ章の14節から記されています。ちなみに、ルカ22章には4回、「杯」と訳される「ポテーリオン」ποτηρίονが出てきます(17節、20節、20節、42節)。すべて同じ言葉です。マタイの福音書20章22節では「わたしが飲もうとしている杯」があることを述べています。ヨハネ福音書18章11節では、その杯は「父がわたしに下さった杯」と表現されています。それはイエスにとってはどうしても飲まなければならない「杯」でした。ここでいう「杯」というのは、「杯」という器そのものではなく、杯の中身が重要なのです。そこで、ユダヤ的(へブル的)視点から理解するならば、「この杯」とは、「過越の食事」で飲まれる「第四の杯」を意味しているのではないかと考えられます。「第四の杯」とは、過越の食事の「完了の杯」でもあり、同時に「賛美の杯」ともなるものです。

ゲッセマネでの祈りにおいて、イエスはこの第四の杯、すなわち、神の小羊であるキリストによって結ばれる新しい契約が成立するためには、完了を意味する「第四の杯」を飲み干さなければなりませんでした。しかしそれは壮絶な苦しみを味わわなければならない杯であり、ゲッセマネの祈りにおいて、イエスはその苦しみのゆえに躊躇しています。とても飲み干せるような杯ではなかったのです。それゆえに、御使いたちが天からイエスに現われて、イエスを「力づけた」とあります(22:43)。

それでもイエスは「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。しかしその祈りが突き抜けたことによって、イエスは「立ち上がり」ました。この「立ち上がる」という動詞は「ア二ステーミ」
άνίστημιで、いわば、復活用語です。まさにイエスは祈りにおいて、すでに勝利し、以後、敢然とひるむことなく、捕縛され、受難の道を進まれるのです。しかし、最後の最後、すなわち十字架上において、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたことにより、22;42の「この杯」が飲み干されました。つまり、過越の食事の最後の杯である「完了の杯」を飲み干されたのです。この杯を飲み干したのはイエスただひとりでした。

なんとなくわかったような気がしなくもないが、何一つ意味をなす説明がなされていないかのようでもあり、まあ、宗教の説教なんて言うものはこの程度のものなのでしょう。

福音書のこの箇所は、いわば「シャレ」なのです。特に深い意味はありません。福音書が著された当時、ローマ帝国周辺では「ディオニュソス教」という宗教が流行していました。ローマ神話から独立した新興宗教で、ゾロアスター教やミトラス教などと競争関係にあったはずです。 

でも取り上げているのですが、ディオニュソスは、巨人や信者の女に八つ裂きにされて食べられてしまいますが、福音書は、当時のメジャー宗教であったディオニュソス教を意識しながら書かれているのです。

つまり、「杯」は民衆の要求を、杯に注がれるワインはイエス様の命を象徴しています。「この杯を遠ざけてください」という発言を読んだ民衆は、「なるほど、ディオニュソスの死を彷彿とさせるな」と感じたでしょう。宗教の説話は宗教としてのセオリーを踏んで、宗教としての雰囲気を身に帯びていなければならなかったということです。だから、

「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」

と発言させて、民衆が敵であるとは考えていないよ、とアピールしているわけです。

そういった事情を知らないまま、想像で「杯」 を説明しようとするから、言語学者が動詞の変化を説明しているかのような奇体な文章になってしまうのではないでしょうかね。

キリスト教のライバル宗教を殲滅してしまった結果、福音書が何を言っているのかわからなくなってしまった、ということです。