キリスト教大辞典

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キリスト教の問題点について考える

バアルと悪魔

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バアル - Wikipedia より、「シリアのパルミラにあるバアルの神殿(ベル神殿)」

 

マタイ伝 12:22-28 を読んでみましょう

そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

 

エス様が「ベルゼブル」を悪魔だと言っている。それ見ろ、悪魔はやっぱりいるんじゃないか。福音書でイエス様がそう言っているんだから。

 

 まあ、ちょっと待ってください。それでは「ベルゼブル」について調べてみましょう。

 

ベルゼブブ - Wikipedia では、

本来はバアル・ゼブル (בַעַל זְבוּל [Ba‘al zəḇûl])、すなわち「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。これはおそらく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる。 パルミュラの神殿遺跡でも高名なこの神は、冬に恵みの雨を降らせる豊穣の神であった。一説によると、バアルの崇拝者は当時オリエント世界で広く行われていた、豊穣を祈る性的な儀式を行ったとも言われる。

しかし、イスラエル(カナン)の地に入植してきたヘブライ人たちは、こうしたペリシテ人の儀式を嫌ってバアル・ゼブルを邪教神とし、やがてこの異教の最高神を語呂の似たバアル・ゼブブすなわち「ハエの王」と呼んで蔑んだという。これが聖書に記されたために、この名で広く知られるようになった。

バアル - Wikipedia では、

バアル(聖書ヘブライ語(英語版): בַּעַל ba‘al、ウガリット語: b‘l)は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」[1]、または「主人」「地主」を意味する。バールや、バビロニア式発音のベール、およびベルとも表記される。 

とあって、ベルゼブルが「気高い主」という意味で、 イスラエルの周辺国の民族宗教の神の名前であったことがわかります。

そのころは、どこの国でも神を「主」と呼んでいたことがわかりますね。ヘブライ語ではアドナイ、ギリシャ語ではキュリオス、ラテン語ではドミネ、となるようです。

例えば、日本の神話におけるアマテラスをライバル視し、悪魔だと想定して、「悪魔」という代わりに「アマテラス」と表現することによって神社を蔑視している、と言い換えればわかりやすいでしょう。その場合、言っているひとは、アマテラスが実在すると考えているでしょうか。そうは考えていないですよね。

福音書のこの表現、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」からは、パリサイ人が「ベルゼブルは実在する悪霊のかしら」だと考えていたのか、比喩としての発言に過ぎなかったのかはわかりませんが、現代のクリスチャンの発言を見ていますと、どうやら、神社仏閣には本当に魔物が住んでいる、と考えている人がいるような気がしてなりません(笑)。

無原罪の聖母の画像を見てください。

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足元の蛇は邪悪の象徴だと納得するとしても、月は何でしょうか。純血の象徴だとか、

黙示録12:1

また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。 

の意味だとか、いろいろな説明があるようですが、実際には、これは「イスラーム」を象徴しています。表(ネット)には出てきませんが、お釈迦様が踏みつけられているバージョンのものも探せば結構あるのだとか。

エス様は、「おまえ馬鹿じゃないの、落ち着いて考えてみろよ」、という意味で「ベルゼブル」の名前を出して、つまり、わかりやすいように相手の価値観まで降りていって諭された、と伝えられているわけです。それを、それ見ろ、やっぱいるんじゃないか、ということにしてしまうのはどんなもんなんでしょうかね(笑)。

それにしても絵画程度ならともかく、正典の文中で、他の宗教を名指しで蔑む、なんてのは本物では無い証拠なんじゃないか、と思わざるを得ないですね。