キリスト教の問題点について考える

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正宗白鳥と聖書

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よみがえる彩色歓喜院聖天堂 | 熊谷市Web博物館

 

三聖吸酸(さんせいきゅうさん)とは、孔子儒教)、釈迦(仏教)と老子道教)は、それぞれ全く別の思想、教えであるかのように思われていても、酢を口にいれれば、誰でも等しく「酸い」と感じるであろう。結局は同じ感覚を持った同じ人間が言い始めたこと、どれも言っていることの芯は似たようなものなのだよ、という喩えです。

 

正宗白鳥 が、「論語とバイブル」という短い随筆を書いています。少し引用してみましょう。

基督教的教育を受けて、基督は神であるという考えが頭に染み込むと、冷静に批評する余裕もなくなり、何となく勿体ない気がして、生理学者が動物を解剖するような態度で、基督に分析的研究を加えるに躊躇する。よし又宗教の信仰がなくても、幾千年の間、幾億万の人間が賢愚共に崇拝する人は、まさか凡人ではなかろうと思われる、ろくろく研究もせず其の経典の一頁をも読まずとも、何となくエラそうに見えるらしく、公平な見識を抱けりと自称する人は、孔子釈迦基督が世界の聖人大君子救世主とは自明真理の如くに信じている。

正宗は、早稲田在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受けた人なのですが、さすがは美文家の誉高いだけのことはあって、実、不実を見分ける力に長けていたと見えます。真実をこれだけの文章に凝縮して的確に表現する力は生半のものでは無いと思います。

基督をしてかかる大名誉を得させ、かかる百代の事業をなさしめた大恩人は、ピラトであろう。彼れ若し磔刑に処せられなかったならば、基督は神として伝わらなかったであろう。従って十字軍も起らず、新教徒の迫害もなく、不道理極まる罪の観念に悩さるることもなく、後代の人間は、一層面白く世を楽んだであろう。基督一人の名誉の為に、西洋幾億万の人間は幸福を減じたこと夥しい、しかし基督自身は名誉心の為にかかる事業を企てたのでもないから、咎める訳にも行かぬが、其の代り大人物でもない。彼が後代に残した勢力は善悪共に偶然である。孔子とても釈迦とてもそうである。人或いは此等二三の聖人が出現しなかったらば、社会は如何に野蛮極まるであろうという者もあるが、これは一面を見た人の議論に過ぎぬ、古代希臘(ギリシャ)など、あらゆる基督教国の歴史に類のない幸福な国であった。人間に備わる五官の慾望を円満に満足させ、現世の幸福を極度まで楽んだ、吾人が理想に近い国であったらしい。

物語と史実の間には目に見えなくとも暗黙の隔たりがあります。正宗は皮肉たっぷりに、それが見えるようになるメガネが必要なのかね、と尋ねているわけです。 

しかし耶蘇の説教は実行すべからざる空論として読めば、常規を離れている丈に面白い、其の生涯も詩人風で芝居的である。新旧全書共に眠気醒しにならんでもないが、論語に至っては世にも稀(めず)らしき平々凡々、砂を噛むが如き書物である。真理は平凡なるに違いないので、吾人も孔子の言に反対は称えぬが、敬服もし兼ねる。雨が降る日は天気が悪い、水は冷たい火は熱いといえば、何人も御尤もと首肯すれど、大発明だと恐れ入る訳には行かぬ。論語全篇凡てこんな言で満ちているのである。「学而時習之不亦悦乎。」という開巻第一の言も仮名でいえば「皆さんは学校で教わった事を家へ帰ってもお温習(さらえ)なさいよ。」と同じ事で、論語知らずの小学校の先生でも常にいっている。「有朋自遠方来不亦楽乎。」の言も平凡。元田永孚(えいふ)先生の如きはこの一節を説明するにも幾万言を費し、古今の大真理としたそうだが、「酔うて唄う亦楽しからずや。」という剣菱即製の論語も真理は孔夫子のと同じく、これを実例を挙げて説明すれば、一日や二日の講義を要するのである。畢竟(ひっきょう)論語もバイブルも吾人が恐れ入るにも当らない凡書である。

ソースを塗りすぎて元の料理が何であったかわからなくなったようなヘンテコな理屈に振り回されている人々を見て、「これをしなさい」と書いてある、それをすればいいだけなんじゃないのか、正宗は洗礼を受けてキリスト教徒として生活をした上で、そのように感じたのでしょう。