誰も知らない「キリスト看板」(聖書配布協力会)の真実! 銭湯・奥の細道 (東北の銭湯巡り)
原理主義 - Wikipedia によれば、
1920年に「ファンダメンダリスト」(原理主義者)という言葉が作られ、攻撃的なまでに伝統的信仰を維持しようとする勢力を呼ぶようになった。
かれらファンダメンタリストをもって自ら任じた人々の主張は、以下を伝統的なキリスト教の五つの根本(ファンダメンタルズ)とみなす認識や信条に基づいていた。
この5つの基本的信条は、1895年にナイアガラで開催された聖書会議で宣言されたものであった。聖書の無誤性を信じる聖書無謬説は自由主義神学の対義語である。
とあり、また、
現代の(狭義の)キリスト教ファンダメンタリストと呼ばれる人々は下記のような政治的・社会的主張を行っている。現代の(狭義の)キリスト教ファンダメンタリストと呼ばれる人々は下記のような政治的・社会的主張を行っている。
- いかなる理由であっても妊娠中絶に反対する。例えば、母体が病気や身体機能の障害で、妊娠や出産の負荷により死亡する危険性が高い場合、多胎妊娠をした場合に母体の負担軽減や胎児の死亡確率の減少のための減数手術、性犯罪・強姦により被害者が望まない妊娠をして出産を望まない場合であっても妊娠中絶に反対する。
- 妊娠中絶に対する反対に関連して、人工授精、代理出産などの生殖医療技術に反対する。
- 純潔運動推進。男女が結婚(婚姻の届け出を行なう)前に性関係を持つこと、夫や妻以外の人との恋愛や性関係を持つことに反対する。
- 同性愛、および、同性愛者の法律上の結婚に反対する。
- 天文学、天体物理学、地球科学、生物学などの学問を学校教育で行うことを聖書の天地創造説を根拠に反対する。
- バイオテクノロジー、バイオビジネスに反対する。
原理主義的と言われる、また、自由主義的と言われる教派は何、という分け方もありますが、見たところ、自由主義的な教派の信徒であっても、原理主義者は存在するようです。自由主義よりも原理主義のほうが簡便だからです。アクセサリーとしても目立って輝いているように見えるかもしれません。
例えば妊娠中絶という問題がありますが、生命を軽んじてはならないから、とか、淫らな性の遊戯を戒めるため、とか言った理由で禁じるのではなく、聖書で禁じられているからという理由だけでそのように主張しているわけです。
中絶に反対するために、医師を教会で銃殺する、というようなことが正義であるはずがありません。
また、「聖書の無誤性」といいますが、人が作ったもので誤りが全く無いものなど存在し得ないでしょう。聖書が神の著作物なのであれば、本屋で金を払って買わなくてはならないのはなぜでしょうか。また、様々なエディションがあるのはなぜでしょうか。
聖書に誤りが無い、というのであれば、他人の誤りを数え上げて判事や検事の真似事をしてほくそ笑む前に、
マタイ福音書 19:21
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
を実践するべきでしょう。イエス様が十字架で亡くなったという記述は、資産家の青年に宛てた提案を自ら実践したことの記録なのです。すなわち、一切の持ち物を捨て去ったということです。
仏教は、これは宗教ではない。悟りを得て涅槃の境地へ至ることを目的とする思想である、とまず言っています。それを踏まえた上で、それはわかっているんだけど、だれにでもできることではないのだから、この世では無理だと諦めて、とりあえず死んでから修行することにしよう。この世では、死後修行できる環境へ転生できるように阿弥陀様により頼んで「南無阿弥陀仏」と唱えよう、などといった考えが展開されていますが、これが仏教の迷信化だと言うことができるでしょう。
キリスト教は、宗教であることを継続していますので、本体そのものが迷信で構成されている、と見るのが正解です。当然、誤った聖書の解釈を行います。聖書には文学的な要素はありえない。また、比喩的表現はなされていない、としか考えることができないわけです。「喩えでお話しますよ。なぜなら、あんたたちはあんまり賢くないからだよ。」とはっきり書いてあるのに、です。実際には、聖書の原理から外れてしまった解釈を行うことを原理主義、キリスト教ファンダメンタリズムというわけです。
キリスト教の教会とは、聖書を「六法全書」として扱って、裁判所ゴッコをして楽しむ高額有料遊園地なのです。
世の中に、これを食べれば、それだけで痩せる、とか、頭が良くなる、とか、病気が治る、とかいったものがあれば、それは間違いなく詐欺です。同様に、洗礼を受けて「イエス・キリストを救い主と信じます」と口で言えば、それだけで死後良いところへ逝ける、などという話も詐欺です。
不気味な看板を貼り付けたり、拡声器で皮肉や嫌がらせを浴びせかけたりして、道行く人々を嫌な気持ちにさせて楽しむ。キリスト教徒の本質とはその程度のものでしかありません。