キリスト教の問題点について考える

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伝道の書

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King Solomon

 

旧約聖書に「伝道の書」があります。

コトバンク」から、解説を引用してみましょう。

旧約聖書諸書の一書。ダビデの子,エルサレムの王である伝道者の言葉とされているが,ソロモンの著作とは認めがたく,ギリシア哲学,特にエピクロス哲学の影響を受けて前 250~150年の間に書かれたと推定される。「日の下で人が行うすべてのわざを見たが,みな空であって風を捕えるようである」 (1・14) との言葉に示されるように,地上的な価値や快楽は究極の安心を与えず,知恵は人間的な諸相のむなしさを教えること,神の思いははかりがたいことを語っている。しかし懐疑と動揺と悲観のうちに永遠を思い神をたたえる信仰がのぞき (3・11) ,義人さえもが義によって滅ぶ人生のむなしさを嘆きつつも,真相を知る知恵が力であり (7・12) ,すべてを知って裁く神の前になしうることは力を尽してなし (9・10) ,神を恐れて本分を守るべきこと (12・13) が逆説的に力強く述べられている。本書は一見他の書にはみられないほど統一性を欠いているため,正典への編入は遅れて2世紀頃であった。 

伝道の書は短い巻ですので、全部読んだよ、とおっしゃる方も大勢おられるのではないかと思います。コトバンクの解説にあるように、厭世的な嘆きから、神に対する期待を逆説的に述べているのだ、という解釈がほとんどだと思います。

ここで例によって、この文書が、仮に仏教の影響を受けて書かれたものだとしたら、と想像しながら読んでみることにしましょう。

冒頭の「空の空、空の空、いっさいは空である。」、言うまでもなく、これは「空性」を総括する言葉であって、「虚しい」と嘆いているわけではないことになります。世の中のことはすべて「空」なのだよ、とまず総論を述べて、たとえばこんなことだよ、と細目の説明がこのあとに続いていく、というわけです。

いちいち細かく分析していくと膨大になってしまいますが、上の例から一つ検証してみましょう。

「日の下で人が行うすべてのわざを見たが,みな空であって風を捕えるようである」 (1・14) との言葉に示されるように,地上的な価値や快楽は究極の安心を与えず,知恵は人間的な諸相のむなしさを教えること,神の思いははかりがたいことを語っている。  

むしろ、安心というところに価値を求めること自体を否定しているのだ、と読みたいところです。神により頼むことも日の下で行う人のわざの一つに過ぎません。

 

少しとんで、11:10 を見てみましょう。

「あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け。若い時と盛んな時はともに空だからである。」
煩悩から離脱して菩提へと赴こう、という提案だと理解すれば、とても仏教的です。なにもかも捨て去って、もはや神さえも残っていない、それが「神になる」ということなのだよ、と教えているのだとすれば、また面白い別の世界が見えるようです。