キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

ルルドの奇跡とは

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フランス南部の村「ルルド」で起こった奇跡、というものがあります。カトリックでは聖母マリアが一人の少女、ベルナデットに出現し、泉を湧かせて難病を癒し、ベルナデットは死後も遺体が腐敗しなかったことをもって、教会公認の奇跡と定義したとされています。

それは凄いな、やっぱりカトリックが本物のキリスト教なんじゃないか、と思われる場合もあるかもしれませんが、この「カトリック教会公認の奇跡」もやはり完璧ではないようです。

まず、ベルナデットは、自分が幻視した女性を、聖母マリアだとは思っていなかったということ、というより、少なくとも聖母マリアでは無いと思っていた、ということ、そして、難病が完璧に癒された、という痕跡が無いこと、それから、遺体が腐らない、という現象は特に珍しいことではないこと、があります。

 

によれば、

当初は、「何か白いモノ」、「“あれ”は小さなお嬢さんの形をしている」と表現していた。ところが1858年の3月25日、16回目の出現があったこの日に、ベルナデットは思いきって貴婦人に次の質問をしてみたことから事態は変化を見せる。

”お嬢さん、お願いです。あなたがどなたであるか教えていただきたいのです。”

この質問に対し、貴婦人は微笑むばかりで返事はなかったという。しかしベルナデットはあきらめず、4回この質問を繰り返すと、ついに貴婦人は次のように答えた。

”私は無原罪の宿りである。”

ここでいう「無原罪の宿り」とは、キリスト教において、アダムの子孫である人類は原罪を負うとされるが、聖母マリアだけは原罪なしにイエス・キリストを受胎したとする教義のことを指している。(目撃からわずか4年前の1854年に教義となったばかり)

ところがこの発言、文法的には明らかにおかしかった。これには当時のキリスト教関係者も気づいており、上記の言葉を「私はけがれのない乙女である」、または「無原罪のおん宿りのけがれない乙女である」といった形に言い換えている。

とあります。夢見がちで情緒が安定しない年頃の少女が発したうわ言に、教義として定義されたばかりで、いわゆる流行中の「無原罪の宿り」という言葉をかけ合わせて、いわゆる「村おこし」をしようとした、ということなのでしょうか。そういう意味では大成功だったと言えるかもしれません。

また、

フランスの作家アナトール・フランスが実際にルルドを訪れた際、捨てられた松葉杖を見て残した言葉に集約されているので紹介しておきたい。

”こりゃすごい。でも、義足がないところを見ると
足が生えてきた人はいないらしい。”

 とあります。

遺体の腐敗については、

遺体が腐敗しないということ自体は、ある条件が揃うと起こり得る現象だということがわかっている。それは「死蝋化現象」というもの。この現象では外気から遮断され、湿潤で、低温の環境という条件の中、安置された遺体の脂肪分がロウのようになることで腐敗をまぬがれる。

実際ベルナデットの遺体も、地下に安置されていたことから低温で外気から遮断されるという条件は満たしていた。さらに1909年の調査に立ち会った2人の医師が残した記録によると、ベルナデットの遺体が身につけていた修道服は「湿っぽかった」という。

つまり遺体の置かれていた状況は、死蝋化の条件をすべて満たしていた可能性が高い。

ただしいくら死蝋化していても、何度も開封されるなど、条件が破られれば腐敗が始まってしまうことがある。ベルナデットの遺体もその例外ではなかった。何度も棺を開けて調べられたことから、1925年にはついに腐敗が始まってしまったのだ。

そのため現在では遺体の顔と手の上に、生前の姿をもとに作られた精巧なロウのマスクが被せられている。

と説明されています。

 

キリスト教徒は、自然やその現象について、「神が創造した」と理解しているはずです。奇跡とは、その自然に反した事柄、つまり、超自然とか、反自然とか呼ぶべきものであって、神の意思に反するところであると考えねばならないはずだと思います。

そもそも、泉の水であらゆる病が癒やされるというのであれば、世界中から病院がなくなっているはずだと思いますよ。

「なんだ、やっぱりカトリックは迷信だな」と嘲笑っているあなた、キリストの復活、世の終わり、イエス様の奇跡、全部同じような迷信だと思いますよ。