キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

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マタイ福音 27:46 に

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 という記述があります。なんだ、偉そうに言って、結局土壇場では弱音を吐くんじゃないか、と言われるようなこともあるようですが、キリスト教徒であれば、教会で教わってご存知の通り、これは詩篇第22の冒頭です。なぜ詩篇だと言い切れるのかといいますと、イエス様当時のイスラエルでは、日常語としてヘブライ語ではなくてアラム語が使われていましたが、アラム語訳の聖書があったわけではなくて、聖書はすべてヘブライ語のままでした。ですので、イエス様が「エリ、エリ…」とヘブライ語を発し始めたことは、聖書を朗読し始めた、ということになるからです。しかし、周囲のヘブライ人たちは、それがヘブライ語だということも、詩篇の一つだということも理解できなかったのです。

読んでみましょう。

詩篇第22

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。
われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
しかし、あなたはわたしを生れさせ、母のふところにわたしを安らかに守られた方です。
わたしは生れた時から、あなたにゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたはわたしの神でいらせられました。
わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。
わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。
しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
主を恐れる者よ、主をほめたたえよ。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ。
主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。
国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

冒頭だけ取り出すと、神を疑って嘆いているかのように聞こえますが、全文を読めば、神の素晴らしさを讃え、感謝の意を表すところの詩であることがわかります。文語訳には「あけぼのの鹿の調にあはせて伶長にうたはしめたるダビデの歌」との説明文が添えられています。「伶長」は「うたのかみ」と読みますが、現代風にいえば「宮廷楽部長」となるでしょう。

エス様は十字架での死に際して、神を讃える詩篇を唱えられた。ということが記されているわけですが、福音書のこの箇所が言いたいことは、そういうことではありません。次の箇所を読みましょう。

マタイによる福音 27:47-49

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

聖書はヘブライ語で記されていたのですが、イエス様当時は、異教徒の言語であるアラム語が日常語になっていて、ヘブライ語で話をすることはなかったのだそうです。

この「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った「そこに立っていたある人々」には、山上の説教を現場で聞いた人、また、癒しの業を受けて目が開いた盲人も含まれている、と考えるべきでしょう。彼らは、イスラエル人であって、おそらくはパリサイ派に属するユダヤ教徒だったでしょうが、ヘブライ語詩篇を理解することはできなかったのです。つまり、今ちまたで流行中のカリスマにくっついて歩く、ミーハー的行為には同調するけれども、その本質には興味がなかったのだ、ということが暴露されているわけです。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。

とはかれらのこと。と、ここまで言えば勘の良い方であればお分かりでしょう。これはつまり、「キリスト教徒」のことを言っているわけです。

天の国を得たければ「持ち物」を捨てなさい、と書いてありますが、誰か、実際に捨てた人がいますか?いないでしょう。おそらく一人もいないと思いますよ。それでも「キリスト教徒」だと自覚しているんですよね。しかし、それでは、実質的には傍観者に過ぎないですよね、ということです。

「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ってイエス様を馬鹿にして見ているのは、実は「キリスト教徒」なんですよ。