仏教には「信仰の対象」が存在しませんので、厳密に言えば、仏教は宗教ではなくて思想の体系だと言えるかもしれません。大衆化の過程において自然発生した迷信的な部分は仕方ないとしても、根幹的な部分には迷信の要素は存在しないはずです。
しかし、実際にはそうでもないのです。例えば、有名な「般若心経」を見てみましょう。「観自在菩薩が悟りを求めて熱心に修業を行っていたとき」で始まる「空性」の見解を短くまとめた文章ですが、『実体は空に異ならず、空は実体に異ならず』このあたりはまあ良いとして、『実体は無く、肉体、感覚、思想、行い、意識といった、人間の存在そのものも無いのだ』のあたりからだんだんおかしくなってきます。実体は空である、と説明するのであればまだしも、実体は無いのだ、と言うから意味がわからなくなってしまうのではないでしょうか。空とは、あるべきもの、あるように見えるものが無い、ということですが、無と言ってしまうと、そもそも最初から何も存在しないことになってしまいます。
それから、何もない、何もない、無明も、老死も、お釈迦様が説明した色々なことも、実際には無いのだ、と言い切りながら、最後には、結局この世で至上のものは、呪文なんだよ、この呪文を唱えなさい、
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
と説明しています。「空」だの「無」だのと論理不十分な説明をしながら、最後には呪文を唱えるのが一番良いのだよ、と言っているわけです。
般若心経の他にも、念仏だけしていれば、あるいは南無妙法蓮華経と唱えれば、それだけで救われる、というような極端なものがあったり、護摩焚きをしたりするのを見ると、どうも本体そのものが迷信に汚染されてしまっているのではないかと思えます。
もちろん異論もあるのでしょうが、初期仏教が純粋なお釈迦様の思想だけを追求することに対し、北伝仏教(大乗仏教)には、このように、教えの本体そのものに迷信的要素が入り込みやすいように見受けられます。
キリスト教ではどうでしょうか。記事「キリスト教の理念は団体主義であること」で申し上げたとおり、本来、キリスト教徒は「既に真の光を見」たもの、つまり、神そのものである「真理」を体感して、仏教でいう涅槃に至っている状態なのだ、という理解であるはずなのです。なにもかも知り尽くした状態だというわけです。
しかし、実際には、機密(正教会)、秘跡(カトリック)、聖礼典(プロテスタント)と呼ばれる、人間が知り及ぶことのできない神の秘密の儀礼、が存在し、それを行うことが必要である、と考えていて、既に真の光を見て、なにもかも知り尽くしている、という理解とは矛盾することになります。
結局、宗教に頼りながら生きることは、迷信に振り回されながら、ただ死を目指しているだけだということになるのでしょうね。