キリスト教の問題点について考える

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アブラハムの死生観

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創世記から、サラの死に際しての記述を読んで見ましょう。

 

創世記 23:1-4

サラの一生は百二十七年であった。これがサラの生きながらえた年である。サラはカナンの地のキリアテ・アルバすなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは中にはいってサラのために悲しみ泣いた。アブラハムは死人のそばから立って、ヘテの人々に言った、「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

何事にも終りがあるように、人生にも終りがある。アブラハムはそのことを知っていたので悲しみ泣いたわけです。

 

前後しますが、次にイサクの逸話を確認しましょう。

 

創世記 22:9-11

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

アブラハムが 死後の世界で、再びイサクに相まみえる可能性があるのであれば、何の犠牲をも払おうとしていないことになってしまいます。

この子を屠って神に捧げれば、イサクは完全に無に帰してしまうのだ、と理解しているからこそ、アブラハムは神に従ったと言えるのです。

でも、アブラハムは死後天国に迎えられたと書いてあるよ、と思う人もいるでしょう。確かめて見ましょう。

 

創世記 25:7-8

アブラハムの生きながらえた年は百七十五年である。アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた。

 

「その民に加えられた」が天国に迎えられた、という意味、あるいは、新約が成立するまでのあいだ、静かな眠りに入り、復活の予定の列に加わった、と説明する場合があるようですが、無理がありますよね。もしそういうことを言いたいのなら「死んで」とは言わないでしょう。

 

次の記事を読んで見て下さい。

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しばしば地震による津波の被害を受ける地域で、神社や仏閣がその被害に合わなかった、という内容なのですが、記事にもあるように、地震が発生したら、津波の危険を逃れるため、この位置にまで走って来なさい、という印として神社やお寺を立てたのだということです。

おわかりでしょうか、「その民に加えられた」モーセとは、この神社のことです。モーセ自身は「死んで」しまったが、その功績は生きている民の間に語り継がれて、活き活きと役に立っている、ということなのです。

死んでも死なない、とか、復活した、とか言うところの本当の意味はこのことです。たとえ「誰が」ということは忘れられてしまったとしても、このようなことの積み重ねが社会を良くして行くのだということです。

「信仰」とはこのようなことです。何百年という積み重ねがあってこそ、社会に役立つ結果を得ることができます。明治から五、六代続いた程度ではダメだということです。寝るにつけ、起きるにつけ、家族も地域も同じ神を礼拝し、祭りに参加し、新しい命を喜び、死者を悼み、古き教えを尊ぶ。日本にはそのための神仏がいるのです。

アブラハムの生き様から、それを知ることができると思います。