キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

お釈迦様の来世観

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実家が京都市内でしたので、禅家の雲水が行う托鉢はよく目にしました。

「ほー」と呼ばわりながら町々をめぐるのですが、子供たちは声を聞くと興奮して「ほおが来たで」などと囃したてながら飛び出してきたり、怖がって家の奥へ走り込んだりします。あれは「ほお」ではなくて、「法雨」と言っていて、み仏のご慈悲は雨となって万民に分け隔てなく降り注いでいるのだよ、と教えながら歩いているわけです。

声が聞こえると、袋に入れた米や現金、時には野菜などを持って出、托鉢僧に渡します。托鉢とは単に物乞いをしているばかりではなく、市井の善男善女に、布施行の機会を与える、という意味もあるのだそうです。

上に引用したブログの写真は大徳寺という北大路にある大きな臨済宗のお寺の雲水ですが、この他にも東福寺建仁寺相国寺妙心寺などの禅寺や、延暦寺本願寺の托鉢に出会わすこともあります。

仏教というと、葬式を連想しがちで、死後を重んじる宗教、というイメージが強いですが、お釈迦様は死後のことについてどう教えたのでしょうか、「火ヴァッチャ経」という教典に記されている、お釈迦様と外道の修行者の問答を見てみましょう。「阿含経を読む」というサイトから引用します。

ヴァッチャよ、これをいかに思うか。もし汝の前に火が燃えているとしたならば、汝は<わが前に火が燃えている>と知るだろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前に火が燃えていれば、わたしは、むろん、<わが前に火が燃えている>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝が、<この火は何によって燃えているか>と問われたならば、ヴァッチャよ、汝は何と答えるであろうか」
「友ゴータマよ、わたしは、<おお、わたしの前に火が燃えている。この火は、草や薪があるから燃えているのだ>と答えるであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝の前のその火が消えたならば、汝は、<わが前のその火は消えた>と知るであろうか」
「友ゴータマよ、もし、わたしの前のその火が消えたならば、わたしは、むろん、<わが前のその火は消えた>と知るであろう」
「では、ヴァッチャよ、もし汝に<その火は、ここからいずこに行ってしまったのか。東か、西か、あるいは、北か、南か>と問うものがあったならば、ヴァッチャよ、汝は、かく問われて、なんと答えるであろうか」
「友ゴータマよ、それは見当違いというものである。友ゴータマよ、実に、かの火は、草や薪があったから燃えたのであり、それが尽きて、あらたに加えられず、もはや燃えるものがなくなって消えた、というべきである」

これをもって、釈迦は死後に無関心だった、とか、仏教は現世利益至上主義だとか言われる場合もあるようですが、そうではなくて、単に、お釈迦様は嘘を言わなかっただけのことでしょう。死んだことがないのに、自分で確認できないようなことを説明のしようが無い、というだけのことです。

死後の世界を明確に定義している宗教があるようですが、それは確認した上でのことでしょうか。そうでなければ虚言でしかありませんよね。

体とは別に霊魂というものがあるのであれば、夜、体が寝ても意識は寝ないはずです。意識は体の一部だから、体と共に意識も睡眠するのであって、体が死んでも意識だけは生き続ける、ということは考えにくいですね。

仏教は生きている間を大切にするために、執着せずにものを捨てなさい、ということを教えます。また、「死」はすべてを捨て去って、煩悩さえも一切残っていない清らかな状態を彷彿とさせるので、「涅槃(=悟った状態。成仏と同義)」と喩えられるわけです。

仏教を、現実的な生き方の提案であるというのであれば、キリスト教は生を否定する死の宗教だといえるでしょう。