キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

神の国とは何のことか

f:id:christian-unabridged-dict:20171128101246j:plain

todiscoverrussia.com

 

過去記事「右の頬と左の頬」でも書いたのですが、もう一度マタイによる福音書 第五章38-42節を読んでみましょう。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

山上の垂訓の一部です。過去記事では、色々な解釈もありますが、この箇所は単純に、ガンジーのような無抵抗主義を勧めている、と考えればよいだろうとまとめました。

今回は、この箇所が本当に言いたいことは何か、ということを考えてみましょう。

「山上の垂訓」とは、「神と神の国」について説明するところの説教なのですから、その説明の中で、右の頬を打つものと、打たれるものが、人と人である、と解釈することは間違いです。イエス様は「神がそうするように」という前提でこの説教をしたわけです。

ですから、右の頬を打つものはクリスチャンであって、打たれるものは神、下着を取るものはクリスチャンで、取られるもの、上着を与えるものは神、一マイルを強いるものはクリスチャンで、二マイルを共にするものは神なのです。

神は厳格で冷酷、と思っているかも知れないが、あなた方が背いたとき、神はあなた方を打ったか、見放したか、よく考えて見なさい、という問いかけです。

だから、その通りにするのは難しいだろうが、なるべくはその傾向を持ちなさい、と言っているわけですね。

不正なもの、誤っているものを見かけたら、指摘したりただそうとしたりすることは間違いではないでしょう。しかし、相手が泣いて謝るまで叩き続ける必要はありません。世の中の仕組み(『神』と言い換えてもいいでしょう)に任せる決断も必要だということです。神の国とは、そうやって築かれる、理想的な社会の状態のことです。死後の世界のことではありません。

クリスチャンはこの箇所を読んで、右の頬を打たれるものは私自身のこと、としか理解できないようですが、残念ながら、そこまで堕落した文書ではないようです。