過去記事「右の頬と左の頬」でも書いたのですが、もう一度マタイによる福音書 第五章38-42節を読んでみましょう。
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
山上の垂訓の一部です。過去記事では、色々な解釈もありますが、この箇所は単純に、ガンジーのような無抵抗主義を勧めている、と考えればよいだろうとまとめました。
今回は、この箇所が本当に言いたいことは何か、ということを考えてみましょう。
「山上の垂訓」とは、「神と神の国」について説明するところの説教なのですから、その説明の中で、右の頬を打つものと、打たれるものが、人と人である、と解釈することは間違いです。イエス様は「神がそうするように」という前提でこの説教をしたわけです。
ですから、右の頬を打つものはクリスチャンであって、打たれるものは神、下着を取るものはクリスチャンで、取られるもの、上着を与えるものは神、一マイルを強いるものはクリスチャンで、二マイルを共にするものは神なのです。
神は厳格で冷酷、と思っているかも知れないが、あなた方が背いたとき、神はあなた方を打ったか、見放したか、よく考えて見なさい、という問いかけです。
だから、その通りにするのは難しいだろうが、なるべくはその傾向を持ちなさい、と言っているわけですね。
不正なもの、誤っているものを見かけたら、指摘したりただそうとしたりすることは間違いではないでしょう。しかし、相手が泣いて謝るまで叩き続ける必要はありません。世の中の仕組み(『神』と言い換えてもいいでしょう)に任せる決断も必要だということです。神の国とは、そうやって築かれる、理想的な社会の状態のことです。死後の世界のことではありません。
クリスチャンはこの箇所を読んで、右の頬を打たれるものは私自身のこと、としか理解できないようですが、残念ながら、そこまで堕落した文書ではないようです。