福音書には、イエス様が奇跡でパンを増やした、と記されている、と教会は教えます。本当にそうでしょうか、くだんの箇所を確認してみましょう。
マタイによる福音 14:16-21
するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。
これは奇跡の記録ではありません。淡々と事実を叙しているだけです。奇跡を説明するのであれば、弟子の手にパンや魚が生じたことを述べているはずなのです。
どういうことなのか、何を言いいたいのかといいますと、福音書のこの箇所は、イエス様は、裕福なパトロンが、彼の家令や下僕に充分な食料を持たせて用意していることをよく知っていたのだ、ということを記録しているだけなのです。
いい加減なことを言うな、と思われましたか? 証拠があります。もう少し先を読んで見ましょう。これは、また別の場面でのエピソードです。
マタイによる福音 15:32-38
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。
前回、イエス様が超能力で食料を増やしたというのであれば、今度もまた同じようにしてくれるだろう、と期待すればいいだけの話です。しかし、弟子は「どこで手に入れましょうか」と心配しています。前回はたまたま群衆にパトロンがいたから助かりましたが、そうそう毎回うまくは行きませんよ」と心配しているわけです。
また、その少し後を見てみましょう。
マタイによる福音書 16:8-12
「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
奇跡でパンを増やしたのであれば、イエス様のこの発言には何の教訓も無いことになってしまいます。食べ物に困ったときは俺が超能力でぱぱっと出してやるんだから心配するな、と言われても実際にそんなことはあり得ませんよね。
NPO法人国連WFP協会HP 「数字が語る世界の飢餓」には、「・・世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としています。」「飢えと貧困によって、世界では毎日2万5000人の人々がなくなっています。」と記述されているのだそうです。
このエピソードには、奇跡ではないからこその価値があります。
食べ物をどうしようかと思い悩むな。頑張れば、人間同士ちからを合わせればなんとかなる。だから、食べ物のことよりも、パリサイ人とサドカイ人、つまり迷信深い宗教によって心が嘘で満たされてしまうことのないように注意しなさい、と教えているわけです。