キリスト教大辞典

キリスト教大辞典

キリスト教の問題点について考える

言伝え

f:id:christian-unabridged-dict:20171024092024j:plain

www.myjewishlearning.com

 

 ※この記事では、キリスト教でいう「旧約聖書」を「聖書」と表現します。

 

福音書には「言伝え」という表現が出てきます。引用してみましょう。

マタイ福音書 15:1-6

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。

 律法には、成文律法と口伝律法があって、成文律法とは聖書の最初の五書のことで、口伝律法はキリスト教には伝わっていませんが、モーセが神から直接授けられたものとされていて、ユダヤ教では「タルムード」としてまとめられています。イエス様が福音書で批判した「言伝え」とは、この口伝律法のことでした。

ユダヤ教の律法は、聖書を読んだだけでは、抽象的で何のことなのかよくわかりません。だからかってな解釈が横行します。たとえばレビ記に「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。」と書いてあれば、これは多分同性愛者のことだろう、と解釈して、同性愛者を排斥するわけです。

しかし、実際には、成文律法は律法の骨子なのであって、それだけでは充分な理解を得ることができないので「口伝律法」で補い、肉付けをして、具体的な意味がわかるようになるわけです。

本来であれば口伝であって、文書にはなっていないものであったのですが、2世紀の末頃、文書としてまとめられたものが「ミシュナー」で、それに解説を付け加えた文書を「タルムード」といいます。

 

恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! というサイトには

タルムードはいわば、へ理屈ラビ(ユダヤ教教師)の妄言集みたいなもの。
聖書のことばをねじ曲げ、人間的な教えに変え、
教師、ラビを「盲人を導く盲人」とし、信者を「自分に倍まさるゲエナの子」にするのに
用いられる。それは、聖書ではなく、聖書の忠実な注解書でもなく、逆に
それは、人々が神のことばに難くせをつけ、へ理屈をいい、
ないがしろにするべく、冒涜の民とするのに用いられる。それは、端的にいえば、悪魔の書である。
以下のタルムードの記述を見よ。

と、さんざんな悪口を並べていますが、これでは異教徒を「豚」と蔑むタルムードと同じですね(笑)

しかし、民族宗教が、その民族を本位にして教義を展開するのは当たり前のことでしょう。タルムードを捨てて聖書を読んだところで、本来の意味が理解できるはずがありません。

 

たとえば、こんなのがあります。

【タルムード珠玉の処世訓】 から

”よく学べ” ただし受け身であってはいけない。

”よく質問せよ” 他人に対してだけでなく自分自身にも」。

”権威を認めるな” 進歩は既成の権威を否定するところから始まる」。

”自己を世界の中心に置け” 他人を軽んずることではない

”幅広い知識を持て

”失敗を恐れるな” 失敗は挫折ではない、その裏側に成功がある、それだけ成功に近づいたと思え

”現実的であれ” 自然に生きろ、可能性と限界を知り無理をしてはならない

”楽観的であれ” 明日は進歩を書き込む白紙、ゆとりを持って白い紙に書き込もう

”豊かなユーモアを持て” 笑いは意外性によってもたらされる。

”対立を恐れるな” 進歩は対立から生まれる。

”創造的な休日を送れ” 人間の真価は休日の送り方で決まる。

“家族を大切にせよ” 家は自分を育てる城である、自分の家を大切にせよ。

イイコト言ってるじゃん、別に捨てなくてもいいのに、と思われたでしょう。でもこんなのもあります。

 

「タルムードの中身その2、悪の論理」 より

「汝等は人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、146の6)。
「世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼等はことごとく空皮に過ぎざればなり」(イェシャヤ法師)。
イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば、豚と呼ばるるなり」(ロイベン法師)。
「汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出でたればなり」(メナヘム・ベン・シラ法師)。
「悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり」(ナフタリ法師)。
「犬は異邦人より勝れたるものなり」(アシ法師)。
「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの1)。

結構酷い内容ですよね。ユダヤ人でないものは人間ではない。汚れている、なんていう部分をローマ国教の正式な教典にはできません。だから福音書で「こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。」と発言させて、これを排斥してしまったわけです。

しかし、イエス様がユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ教の習慣に従って成長した実在の人物であるのなら、聖書とタルムードが、別々のものであるような評価を行わないでしょう。どちらも同じ律法なのですから、それを批判するということは神やモーセを批判するのと同じことであったはずです。このことからも、キリスト教発足のために設定された架空の人物であることがわかります。

タルムードを捨ててしまったせいで、聖書は難解な呪文の羅列に成り下がってしまいました。そんなことをするぐらいなら全部捨ててしまえばよかったのです。

 

申命記にはこのような記述があります。

申命記2:31-36

時に主はわたしに言われた、『わたしはシホンと、その地とを、おまえに渡し始めた。おまえはそれを征服しはじめ、その地を自分のものとせよ』。
そこでシホンは、われわれを攻めようとして、その民をことごとく率い、出てきてヤハズで戦ったが、
われわれの神、主が彼を渡されたので、われわれは彼とその子らと、そのすべての民とを撃ち殺した。
その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。
ただその家畜は、われわれが取った町々のぶんどり物と共に、われわれが獲て自分の物とした。
アルノンの谷のほとりにあるアロエルおよび谷の中にある町からギレアデに至るまで、われわれが攻めて取れなかった町は一つもなかった。われわれの神、主がことごとくわれわれに渡されたのである。

異教徒を排斥するどころか、皆殺しにしたことの記録ですね。聖書にも言伝え的な民族優先の要素が顕れています。

ユダヤ教というのは民族宗教です。そもそも世界宗教なんていう都合のよい宗教は存在しません。民族宗教が、自国の領土を侵す他民族を貶して何が悪いのでしょうか。当たり前のことだと思いますよ。

キリスト教ユダヤ教の臭い部分を削ぎ落として洗練させたつもりでいるのかもしれませんが、本来の意味を理解できていなかったので、結局は陳腐化させてしまっただけです。

言い伝え部分は聞き苦しいから除外した。それでは、聖書の本質を知ることができません。そもそも、ユダヤ人でも無いものが聖書を知ることは不可能なのです。まず、非ユダヤ人を「豚」と罵ることができてから聖書を開いてみてはいかがでしょうか。

 

もう一度、恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! を見てみましょう。

聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。
異邦人は、人でないので、いくら殺しても良いとのタルムードの教えは隣人パレスチナ人を虐殺する、彼らユダヤ人により実践されている。この様な異端教理に従うユダヤ人は、聖書の民と言うより、聖書を曲解する悪魔の民と呼ぶべきではないのか?

笑止千万です。聖書との関わりでいえば、キリスト教徒よりもユダヤ教徒のほうが先輩だという事実を知らないのでしょうか。モーセは神から成文律法と口伝律法を授かったのですから、タルムードには聖書と同じ権威があるのです。

『聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。』これが、聖書の真意なのです。