キリスト教の問題点について考える

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心の貧しいものとは

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マタイ福音書五章には「山上の垂訓」と呼ばれる箇所があります。見てみましょう。

エスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

この、最初にある「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」については、解釈に苦心しているようで、ネットで検索すると、いろいろな説明が見つかりますが、「こころの貧しい人」とはどういう人のことなのか、言葉数は多いのですが、結局どうなのかがはっきり説明されているものが見つかりません。

しかし、はっきり言って、どの説明も考え過ぎなのです。日本語で「心が貧しい」というと悪口になりますが、そういう慣用的な意味合いに囚われているようです。

これは、ヘブライ語アラム語に特有だとか、霊的な秘められた意味合いがどうだとか、そういうことはなくて、その意味そのままで良いのです。

「心が貧しい」とは、「精神性や知識(心)が充分ではない(貧しい)ということを自覚している状態」を意味しているのです。翻って言えば、「向上心を捨てない」ほどの意味になるでしょうか。逆に言えば、「もうこの辺でいいや。もう十分だろ」と達観するものはダメだ、ということになります。

常に向上心を捨てずに進歩を目指すもの、そのような人によって、天国(理想的な社会)が実現されるんだよ、だからあなたがたは、そうなりなさい、と教えているわけです。