キリスト教の問題点について考える

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自殺

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Le Suicidé(エドゥアール・マネ、1877–1881年)

 

Wikiの「自殺」から「キリスト教」の項を引用します。

 

キリスト教においては基本的に、自殺は重大な罪だとされるが、キリスト教で自殺に対する否定的道徳評価が始まったのは、4世紀の聖アウグスティヌスの時代とされる。当時は殉教者が多数にのぼり、信者の死を止めるために何らかの手を打たねばならなくなっていた。また10人に1人死ぬ者を定めるという「デシメーション」と呼ばれる習慣のあったことをアウグスティヌスは問題にした。アウグスティヌスは『神の国』第1巻第16-28章において、自殺を肯定しない見解、自殺を罪と見なす見解を示した。神に身を捧げた女性が捕虜となって囚われの間に恥辱を被ったとしても、この恥辱を理由に自殺してはいけない、とした。またキリスト教徒には自殺の権利は認められていない、と述べた。「自らの命を奪う自殺者というのは、一人の人間を殺したことになる」とし、また旧約聖書モーゼの十戒に「汝、殺すなかれ」と書かれている、と指摘し[115]、自殺という行為は結局、神に背く罪だ、とした。アウグスティヌスは「真に気高い心はあらゆる苦しみに耐えるものである。苦しみからの逃避は弱さを認めること」「自殺者は極悪人として死ぬ。なぜなら自殺者は、誘惑の恐怖ばかりか、罪の赦しの可能性からも逃げてしまうからだ」と理由を述べた。
693年には第十六回トレド会議(英語版)において自殺者を破門するという宣言がなされ、のちに聖トマス・アクィナスが自殺を生と死を司る神の権限を侵す罪であると述べるに至って、すでに広まっていた罪の観念はほぼ動かしがたいものになり[116]、自殺者の遺族が処罰されていた時代[117][118]や、自殺者は教会の墓地に埋葬することも許されなかった時代もある。
ダンテの叙事詩神曲』においては、自殺は「自己に対する暴力」とされており、地獄篇の第13歌には醜悪な樹木と化した自殺者が怪鳥ハルピュイアに葉を啄ばまれ苦しむという記述がある。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは『自殺について』のなかで、キリスト教の聖書の中に自殺を禁止している文言はなく、原理主義的にいえば、自殺を禁じているわけではないため、「不当に貶められた自殺者の名誉を回復するべきだ」とした。

 

この説明によれば、聖書中の文言で、直接自殺を禁じているわけではなさそうです。むしろ原初的習慣に「デシメーション」なるものがあって、自殺することは殉教のように美徳であったことをうかがい知ることができます。

 

アウグスティヌストマス・アキナスが口を挟まなければ、本来通り、自殺は美徳であったわけです。このように、現状のキリスト教はオリジナルに不忠実なのです。