キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

右の頬と左の頬

f:id:christian-unabridged-dict:20170718091706j:plain

emija.hatenablog.com

 

マタイによる福音書 第五章38-42節に次のような言葉があります。

 

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

 

 この「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」ということばについて、「REGINA PACIS」というサイトでは次のように解説しています。

 

今日の福音の一節、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。(マタイ5:39)」は、とても誤解されている部分だと思います。多くの人にとっては、いや、クリスチャンにとってさえ、ガンジーのような無抵抗主義のことだと思われがちなのでは?


しかし、古代教会の偉大な教父のひとりであるアウグスティヌスは、「右の頬」は「天的or霊的な善いもの」、「左の頬」は「地上的or肉体的な善いもの」のことであり、「右の頬を守るために、左の頬を向けなさい」と説いています。言い換えれば、「この世的・肉的な善いものを犠牲にしても、天的・霊的な善いものを守りなさい」ということです。


これは、「右」や「左」がユダヤ文化で象徴すること、また、この一節があるマタイ5章全体を見ても、合致が行きます。


まず、ユダヤにおいて、「右」は「善いもの、力あるもの、優れたもの」、「左」は「悪しきもの、弱いもの、劣ったもの」を象徴しました。聖書の他の箇所を見ても、そのことは分かります。(創世記48:14やマタイ25:31-33等)


そして、マタイ5章全体を見ると、この章の一貫したテーマは、「天に入るための道」です。39節の前にも、5章の中では「救いへの道vs滅びへの道」対比が数多く書かれています。その文脈から言うと、まさにこの39節のポイントは、「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」ということであって、無抵抗主義を教えているのではありません。


聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。

 

 この説明によれば、聖書に「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」と記述されていれば「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」と変換して理解しなくてはならない、ということになるわけですが、それならば「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」はどう変換すればいいのでしょうか。また「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」というまとめにはどうつながるのでしょうか。

 

福音書がそんな暗喩で満たされているのなら、普通文に訳された「解訳版」が出回っているはずだとおもうのですが、そういうものは見たことがありませんね。

 

まあそういう箇所が全く無いとはいいませんが、たとえば黙示録なんかは確かに暗喩が沢山あります。しかし、この箇所はそのままの意味でしょう。ガンジーのような無抵抗主義を奨励しているのです。

 

しかし「聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。」と言いたくなる気持ちはわかります。そうとでも言っておかなければ、福音書には実行不可能な指示が沢山ありますからね(笑)。