キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

先住民をあざける高校生ら、その後

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過去の記事
christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

ですが、その後動きがあったようです。本ブログでも取り上げた以上、触れておくべきか、と思いました。

1つめは、

「先住民をあざける米高校生ら 監督教区と学校が連名で謝罪」という報道です。

headlines.yahoo.co.jp

ワシントン特別区、1月21日(AP)― 米の首都ワシントンにあるリンカーン記念堂の前で、南部カトリック系男子高校の生徒らが先住民男性を取り囲んであざ笑う動画がインターネットに投稿されたことを受けて、ケンタッキー州の監督教区が1月19日、謝罪を表明した。
 先住民族の権利を訴える「先住民族の行進」と、同高校生らも参加した数千人規模の人工中絶に反対する「いのちの行進」が偶然重なったリンカーン記念堂の前で18日、トラブルを未然に防ごうと、2つのグループの間に入ったネーティブアメリカンのネイサン・フィリップスさんが、太鼓を叩いて祈りを捧げた。
 すると、フィリップスさんの目の前に、「アメリカを偉大に」という標語が入った帽子をかぶった1人の高校生が立ちはだかり、あざ笑うような目つきでフィリップスさんを凝視。これに合わせて、周りにいた高校生らもフィリップスさんをからかうような言動を繰り返した。
 この様子を撮影した動画がネット上で拡散すると、ケンタッキー州パーク・ヒルズのコビントン・カトリック高校と同監督教区が連名でフィリップスさんに謝罪。学校は「退学を含む何らかの処置が取られる」ことを明らかにした。
 高校生らの行動について、フィリップスさんは「グループ同士の衝突しないように祈っただけだ。この国が分断されるのを見るのは…もうたくさんだ」と述べた。

 一方、

「米高校生インタビューに答える 先住民を敬い人種差別を否定」

という報道もあります。

headlines.yahoo.co.jp

コビントン、ケンタッキー州、1月24日(AP)― 米の首都ワシントンにあるリンカーン記念堂の前で、南部カトリック系男子高校の生徒らが、先住民男性を取り囲んであざ笑う動画がインターネットに投稿され、高校生に対する無責任な意見や中傷がネット上に氾濫している。
 意図せぬことで論争の当事者となった、南部ケンタッキー州コビントン・カトリック高校の生徒ニック・サンドマン君が1月22日、米NBCニュースの番組でインタビューに応じた。

 

僕の個人的な感想としましては、高校生はインタビューに、「僕に落ち度はない、彼を尊敬しているし話がしたい。一方的な決めつけは良くないと思う」と答えていますが、まあ、本当のところはわからないとしても、少なくとも、あの動画の少年の態度は、「尊敬」している人物に対する態度には見えない、と思いました。

それに、高校やカトリック教会の所属教区は、なによりもまず、少年を守るべき義務があるはずです。それが、謝罪を表明した、と報道されているわけですから、結局、少年はクロだと判断した、と理解しても良いのではないでしょうか。

日本と違い、高校生であっても、このようにメディアに晒されるのだな、と、気の毒には思いますが、政治的なスローガンを身に着けて、公的な場所へ出て主張するのであれば、それなりのリスクは覚悟しなくてはならないでしょう。

「地獄からの悪魔」と呼ばれた教皇

 

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ja.wikipedia.org

 

「聖職者に扮した地獄からの悪魔」と呼ばれた教皇をご存知でしょうか。Wikiには、

ベネディクトゥス9世(Benedictus IX、1012年頃 - 1055年ないし1065年ないし1085年)はローマ教皇(在位:1032年10月 - 1044年9月、1045年4月 - 5月、1047年11月 - 1048年7月)。退位と復位を繰り返し前後3期にわたって在位した個性の強い教皇である。

 とあって、さらに、

伝承によると、ベネディクトゥスは放蕩に明け暮れるでたらめな生活を送ったという。ペトルス・ダミアニはその著作『ゴモラの書』においてベネディクトゥス9世を「聖職者に扮した地獄からの悪魔」に喩え、教皇庁の腐敗やベネディクトゥスの同性愛行為を批判した。またピアチェンツァ司教ベンノーもベネディクトゥスの犯した「嫌悪すべき姦淫と殺人」を糾弾した。後年、教皇ウィクトル3世は「ベネディクトゥスの強姦、殺人、そして口に出せないような所業」について調査を行わせており、その結論として「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」と述べている。 

ともあります。ヨーロッパの中世といえば、もとより何でもありの混沌とした時代であったのでしょうが、それにしても、殺人犯の教皇とは驚きですね。

聖職者たりえない少年が、なにゆえ教皇位に就けたのかといいますと、教皇の選挙権と被選挙権は「枢機卿」にある、という決まりは現在と同じなのですが、当時、というか第二バチカン以前は、俗人であっても枢機卿に就任することができたのです。

ですから、彼の父である、貴族トゥスクルム伯アルベリクス3世が、息子を教皇にさせたい、と望んで、彼に枢機卿位と教皇位を買い与えた、ということは、それほど違法的なことでも不自然なことでもなかったのだろうと思われます。これ以外にも俗人が教皇位に就いたという例はいくつかあるようです。

教皇というのは聖職ですので、教皇位に就いた時点で聖職者になる、ということになるでしょう。現在は、司教でなければ枢機卿になれない、という規則が追加されています。

それにしても、教皇がローマを追放されたり、教皇位を売買したり、奪取したり、その結果複数の教皇が互いに争い合うなど、後に宗教改革が勃発してしまうのも無理のないこと、と理解できます。

 

先住民男性を取り囲み、からかう高校生

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www.cnn.co.jp

先住民男性を取り囲み、からかう高校生 動画が波紋呼ぶ」というCNNの報道がありました。見てみましょう。

(CNN) 米首都ワシントンのリンカーン記念館前で高校生のグループが高齢の先住民男性を取り囲み、はやし立てる場面の動画が、インスタグラムに投稿されて波紋を呼んでいる。

現地では18日、先住民への差別に抗議する集会が開かれた。閉会後に先住民の指導者の1人、ネイサン・フィリップスさんが太鼓をたたきながら祈りを詠唱し始めたところへ、1人の少年が近づいた。

少年の帽子には、「米国を再び偉大に」というトランプ米大統領のスローガンが書かれていた。少年が薄笑いを浮かべてフィリップスさんの目の前に立ちはだかり、周りで仲間がはやし立てる。集会に参加していた大学生のカヤ・タイタノさんが、この場面を撮影した。

タイタノさんがCNNに語ったところによると、少年らは「壁を建てろ」「2020年にトランプ再選を」などというスローガンを唱えていた。

フィリップスさんはベトナム戦争に従軍した経験を持ち、先住民の青少年団体でリーダーを務めたこともある。この日は少年らが激しい口論を始めたのを見かけ、癒やしの祈りを唱えていたという。

少年らに囲まれながら詠唱を続けたが、「恐ろしかった」「逃げ道をふさがれて困っていた」と話す。動画の中でも涙をぬぐいながら、少年らの態度を嘆いた。

少年グループは引率者に促されてその場から立ち去った。パーカーやジャケットの文字から、ケンタッキー州にあるカトリック系男子校の生徒と判明した。同じ日に近くで開かれた人工妊娠中絶反対の集会に参加していたとみられる。

高校が所属する教区は今後、事実関係を調査したうえで、退学を含めた処分を検討すると述べた。 

 

 
 
 
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The amount of disrespect.... TO THIS DAY. #SMH #ipmdc19 #ipmdc #indigenousunited #indigenouspeoplesmarch #indigenouspeoplesmarch2019

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外国人差別被差別部落など、 日本にも差別はあります。しかし、国を挙げて差別的な政策を立て、あまつさえそれを実行する、なんて考えられないことですよね。

このカトリック教徒の差別少年は、自分の考えではなく、周囲の状況に追従しただけのことだったのではないでしょうか。 

結局、キリスト教教育では常識人が育たない、ということです。

 

ルター教会の司教

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mecc.org

 

「司教」が存在するルター教会があることをご存知でしょうか。おそらく日本のルター教会には存在しないのではないかと思いますが、アイスランドフィンランドのような、ルター教会が国教である国などでは、司教が存在するようです。上の写真はエルサレムのルター教会の司教なのだそうです。

カトリック、アウグスティノ修道会の修道司祭であったマルティン・ルターは、カトリック教会の職制のヒエラルキーに否定的だったのではないかと思うのですが、ルター教会の司教は、どの時点からの「使徒」を継承しているのでしょうか。イエス様のお弟子たちから、というのであれば、カトリック時代が含まれていますので、ルター教会は、カトリック教会が認めない、カトリック教会の副流だということになってしまうのではないでしょうか。ルターから発生した使徒の継承だ、ということも、何か不自然ですよね。

結局、どのような動機で発生した組織であれ、最終的には、官僚的な状態を好む、ということなのでしょうか。

 

謎解き般若心経

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www.kawade.co.jp

 

いつも拙ブログをtwitterの「いいね」 でご評価くださる、平野純さんのご著書、「謎解き般若心経」を購入しました。

般若心経の不思議さには、以前から興味がありましたので、平野純さんには他にもご著作があることを知っていたのですが、まずはこれをチョイスさせていただきました。

本ブログでは、過去記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

で、般若心経について、

有名な「般若心経」を見てみましょう。「観自在菩薩が悟りを求めて熱心に修業を行っていたとき」で始まる「空性」の見解を短くまとめた文章ですが、『実体は空に異ならず、空は実体に異ならず』このあたりはまあ良いとして、『実体は無く、肉体、感覚、思想、行い、意識といった、人間の存在そのものも無いのだ』のあたりからだんだんおかしくなってきます。実体は空である、と説明するのであればまだしも、実体は無いのだ、と言うから意味がわからなくなってしまうのではないでしょうか。空とは、あるべきもの、あるように見えるものが無い、ということですが、無と言ってしまうと、そもそも最初から何も存在しないことになってしまいます。

と言っているのですが、 これは、「謎解き般若心経」でも説明されている、「般若心経は間違い? (スマナサーラ長老クラシックス)」という著作からの受け売りでして、これを読んだときは、なんだ、般若心経って、難解だとおもっていたら、結局間違いのお経だったのか、と変に納得してしまっていたのですが、平野さんの「謎解き般若心経」では、この、スマナサーラ長老の「般若心経は間違い?」について言及されていて、言及といういよりは、「般若心経は間違い?」における理解を、さらに深く掘り下げておられたのです。

密教浄土教に関する説明もあって、わかり易く、般若心経を立体的に理解することができたと思います。

お経の解説書というと、お寺でお説教を聞いているような堅苦しい、特に、専門語の説明が手厚すぎて、そもそも何の話題だったっけ? 的なものが多いように思うのですが、平野さんの「謎解き般若心経」は一貫していて、明快に読み進めることができ、とても清々しい読後感を得ることができました。

いわゆる、「仏教の勉強」をしたいという人のための著作ではないかもしれませんが、仏教の真髄を正しく知ることができる一冊と言えるのではないでしょうか。

他のご著作も読ませていただくつもりです。

日本キリスト教団逗子教会の集金説教「ささげる恵み」

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zushikyokai.holy.jp



教会という組織を維持するためには金が必要だ、ということは理解できなくもありません。ある程度は信者に頼ってもよいでしょう。しかし、神に責任を押し付けてはいけないと思います。

日本キリスト教団逗子教会の、小宮山剛牧師による、2015年10月4日の主日礼拝の説教から一部引用してみましょう。

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日本キリスト教団逗子教会・小宮山剛牧師

さて、ではなぜ神さまがささげものを必要とするのでしょうか? 神さまは全能なる方ですから、何も必要とはされないのではないでしょうか? だとしたらなぜ神さまに献げるということが必要なのでしょうか?
 それは神の御心を成し遂げるために必要であると言うことができます。旧約聖書を見てみますと、旧約聖書には、その年の農作物の収穫の十分の一を神さまに献げました。これが十分の一献金につながっているわけです。また他にも感謝のささげものなどがありました。これらは神を礼拝する場所である幕屋、神殿ができてからは神殿に持っていきました。そして神殿で仕える祭司やレビ人に渡しました。そのようにして、神殿で神を礼拝する奉仕に当たる祭司とレビ人を養ったのです。
 またそれらの献げ物をすることによって、イスラエルの民の共同体を守ったと言うことができます。言い換えれば、イスラエルの信仰を守ったということができます。

神とは、献金無しにはなにも成し遂げることができない存在なのだと言い切っています。牧師よりも高利貸しでも経営して集金したほうが早いんじゃないでしょうか。

旧約聖書に規定があるからキリスト教徒もそのようにしなければならない、というのであれば、献金よりも前に、まず、出エジプト記にある規定に従って神殿を建設しなくてはならないのではないでしょうか。

しかしF先生が最近長崎に行った時に、あるカトリックのクリスチャンがこう言ったそうです。「うちは400年続いたキリスト教の家です」と。その人の先祖は400年前にキリシタンとなり、伊達政宗の命令でヨーロッパに行った支倉常長と同行したそうです。ところが日本に帰ってきてみると、徳川幕府キリスト教を既に禁止していた。それで子孫は明治まで隠れキリシタンとして信仰を受け継いできたと言ったそうです。そうすると、300年先を考えた教会形成ではなく400年先を見据えた教会形成にしなけりゃならんのではないかと思ったそうです。
 いずれにしても私は、ハッとさせられました。私はどのように自分の家族について考えていただろうか。また、自分が牧会している教会についてどのように考えていただろうか。せいぜい10年か数十年の単位でしか考えていなかったのではないか、と。

教会というのは、世界に神の理想が行き渡っていないから存在するわけです。おわかりでしょうか。キリスト教徒は牧師のパトロンだ、としか理解できない牧師しかいないから、何百年後にも教会がなくてはならん、としか考えることができないわけです。

さて、そういう中でいくつもの助けがありました。そのうちの少しだけご紹介いたします。一つは、同じ中部教区の愛知県のある教会が、W教会の牧師のためにと言って2ヶ月に一度2万円、つまり毎月にすると1万円を送り続けてくれたことです。しかもそれはその教会の会計から支出していたのではありません。その教会の有志の人が、困難な教会を助けるための祈祷会を持ち、その祈祷会に参加した人から献金を募って、それを送られるというシステムなのです。すなわち、神さまへの祈りと共に送られてくる。尊いことだと思いました。
 また、ある遠方にいるクリスチャンが、こちらもまったく何の条件もつけずに毎月1万円をW教会の牧師家族のために献げ続けてくれました。二つだけ例を挙げましたが、たとえばそういうことがありました。私はお金の話しをしたいわけではありません。私は、そこに神さまの働きを見たのです。もちろん、これは現世利益というのにはど遠い小さな出来事でしょう。しかし何よりも大きな益であったのは、そこに神さまの働きを見たということです。 

神の愛を説諭するにあたって1万円だ、2万円だ、とは情けない限りです。カネカネカネ、金の話ばかりですね。

こういう類のレベルの低い牧師は、福音派とかキリスト教とは名ばかりの集金専門にわか教会の駄牧師だけなのだろう、と思っていました。まさか日本キリスト教団に所属する教会の牧師が十一献金を要求するとは思いませんでした。

結局、キリスト教は金がほしいだけだ、と結論付ける他はなさそうですね。

京都の雑煮は白味噌?

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www.kokonoemiso.com

 

キリスト教に関係しない内容で恐縮ですが、今回は京都に纏わる都市伝説のことなどを。まずは雑煮です。

お正月が近づくと話題になるのが、お雑煮の仕立て方です。京都のお雑煮は白味噌仕立てだというアレですね(笑)。

確かに、白味噌のお雑煮というものは存在するのですが、実際に白味噌のお雑煮が出されるのは、一日の朝一回だけで、あとは澄ましだとか田舎味噌だとか、普通は複数のおつゆが用意されていて、好きなのを選んで食べる、という風になってます。

ご想像いただければわかる通り、白味噌というのは甘いものですから、続けて食わされたものならもたれて気持ち悪くなってしまうと思いますよ(笑)。

白味噌のお椀は、金時人参など鮮やかな赤色が入りますと、きれいな紅白になっておめでたい感じになりますので、元旦の朝には必ず出てきます。普段は使わない座敷の間などに食卓を広げ、家長が「お祝いやす」というのを待って、「おめでとうさんでございます」とお祝いを言って箸をとります。なんとなく気が引き締まるような感じがあって清々しくなります。

しかし、普通は、白味噌のお雑煮は元日の朝食に一度だけです。京都の雑煮は白味噌、というのは、味噌屋の印象操作ではないかと(九重味噌さん、ごめん(笑))。

これはあまり話題にならないようですが、京都には「お屠蘇」を飲む風習がありません。屠蘇は薬酒ですので、正月から改まって薬を飲んでは、その年中薬付いてしまう、というゲン担ぎのようです。

また、京都の雑煮は丸餅を湯がいて柔らかくしたもの、という決めがあるように言われますが、これもそのように決まっているわけでは無いと思います。

僕が子供の頃までは、近所数軒の持ち回りで、正月の餅を年末に搗いていたのですが、だんだん人が減ってきたりして、最近は、和菓子屋さんなどに頼んでいまして、大晦日に餅箱が届くようになってきています。「餅は餅屋」というやつですね(笑)。

それでも、自家搗きのときと同じで、丸餅、のし餅、板餅などを三段に分けてきれいに並べたものが届きます。ですので、丸いのも四角いのもあるわけで、湯がくのも焼くのも好み次第です。

ですから、「京都の雑煮は湯がいた丸餅で白味噌仕立て」と決まっているように紹介されることが多いですが、僕としては、こうやって都市伝説が生まれるんだなあ、という気持ちです(笑)。

 

都市伝説といえば、京都で子供のピアノを褒められたら、というような話題があるようですが、

matome.naver.jp

これにも、納得できないところがあります。

たしかに、京都人はもって回ったものの言い方をする傾向があります。色々な符牒を使いまわして、なんとか「なまなま」なものの言い方をせずにすまそう、と気を使うのですが、それは京都の人同士の場合です。

いくら京都人だからといって、本当に困って緊急度が差し迫っている状況であれば、まして相手が他所から来た人とわかっているのなら、「坊ちゃん、ピアノ上手にならはったなあ」などと悠長なことは言わないと思います。それに、ピアノの音は近所迷惑にならないように気をつけないといけないなんて、世界中どこでも同じですよね。

ぶぶ漬けは、いかがどすか?」もよく笑い話に出てきますが、まあ、落語のネタでしかないでしょうね。そんなことを言う人は、おそらく一人もいないと思いますよ(笑)。

他にも、「寿司屋で薀蓄を傾けると煩がられてボラれる」だとか、面白い話がありますけど、まあ、京都の人は、僕も含めてですが、結構イヤミな人が多いのは確かですし、嫌われているんでしょうね。一概に都市伝説と切り捨ててしまってはいけないのかもしれませんが、すくなくとも聞いたことはありません(笑)。