キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

歌手

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キリスト教に関係のない記事が続いてしまっていますが…

 

クッキングホイルはさあ、タレントの悪口なんか言っちゃって、聞き苦しいことこの上無いんだけどさあ、上手いと思ってる歌手はいるの?

 

なんて、別に誰も興味ないでしょうが、僕も、上手だと思っている歌手はいます。フィッシャー・ディースカウやマリア・カラスなんていう別格はともかくとして、テレビでよく見る、今生きている歌手で言えば誰? ということで言えば、

ずばり、美川憲一和田アキ子でしょう。

ソルフェージュや声楽の勉強をしたことのある方でしたら、先生から、

「バイオリニストがバイオリンを自由自在に弾きこなすように、自分自身を楽器にして歌を演奏しなさい」

というような意味のことを教えてもらうのではないかと思いますが、美川憲一和田アキ子は正にそれが実現できている人だと思います。

 

まあ、他にも色々な意見があるでしょうけど(笑)。

音程

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Piano Quintet – ClaMArtists

 

安室奈美恵さんのファイナルライブの話題で賑やかですね。以前、某匿名SNSでもつぶやいたことがあるのですが、安室さん、少し音程が悪いところがあります。彼女にとっては、それほど高い音域ではなくても、張って伸ばすところで低めになってしまうのでとても目立ってしまいます。

それでも、とても上手ですし、声もきれいです。スター、という言葉は、実に彼女のためにある、といえるでしょう。音が低いときがある、という程度のことは、全体の評価を左右しない。それぐらいのスター性がある、ということですね。

 

話は少し変わるのですが、ピアノが入っている室内楽、聞くのが怖い、という方、おられないでしょうか。僕は怖いです。怖い、というか、聞いていると気持ち悪くなります。ご存知のように、ピアノは平均律で調律されているのですが、バイオリンなどの弦楽器は、必ずしも平均律で演奏しなければならないわけではありません。逆に、わざと完全な平均律で弾こうとすれば少し不自然な感じになってしまうと思います。かと言って純正律ということもありません。平均律なのですが、導音が少し高い感じだと思います。この差がぶつかり合って気持ち悪くなるようです。

ピアノの独奏であれば違和感は全くないのですが、弦楽との合奏になると、とても不自然な音に思えて、頭が痛くなってしまうのです。ピアノコンチェルトではそれほどでもないのですが、室内楽になると、その感覚が強くなります。

別に、他人より耳がいいんですよ、と自慢しているわけではありません。僕なんかより耳がいい人なんてたくさんおられるでしょうが、そんなことは気にならないよ、という方がほとんどのはずです。そうでなければ、ピアノ有りの室内楽は作られなかったでしょうし、演奏もされていないはずですから(笑)。

神と仏

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阿弥陀如来 | 仏像ワールド

 

仏教で、特に浄土真宗などにおいては、あたかも如来が現実世界に実在し、特別な力で衆生を往生へと導く、就中、死後、極楽へ生まれ変わらせてくれるのだ、と教えているかのように感じる場合が多いのですが、実際には、如来というのは、人間として、最終的にあるべき、理想の姿を仮定したものであって、実在するものではありません。極楽や浄土などといったものも、実際には死後の世界ではなくて、人間が如来に成長した状態を想像して表現したものであるわけです。

実際、お釈迦様は、死後の世界については、いくら質問されても明確な回答をしませんでした。自分自身がわからないことを説明のしようがないだろう、ということです。これを「無記」といいます。

マタイ福音書 6:30-34

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

エス様とお釈迦様の考えは、ほとんど同じであることがよくわかります。この箇所は、情緒的な感傷でも、感情的な慰めでもありません。

「明日のこと」とはつまり、「死後のこと」です。死後、天国に行けるか、地獄に落とされるか、そんなバカバカしい空想はやめてしまいなさい。それよりも、生きること、生きている社会をどうするのかを考えることが大事なのだよ、と教えています。

そのためには、食事や服装の心配、つまり物欲を捨てなければならない、仏教の言う「煩悩」を捨てなければならないよ、ということを言っているわけです。持ち物を捨てなさいという勧めは、福音書を貫く主題だと言っても言い過ぎでは無いでしょう。

死後、極楽に生まれ変わることが仏教の目的に変わってしまったように、死後天国へ迎えてもらえることが、キリスト教徒の特権であるかのように誤解している人がほとんどではないでしょうか。

 

「宗教みたい」は不適切

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日本スポーツ界では不祥事が頻発して止まない状態が続いていますが、女子体操パワハラ問題で、塚原千恵子女子強化本部長が、宮川紗江選手に対して、「家族でどうかしてる。宗教みたい。」と発言したのだとか。

人を罵倒したければ「宗教みたいだね」と言えば、高い効果が期待できるということなのでしょう。非常識だ、不見識だ、不条理だ、愚昧だ、低劣だ、といいたいときは、「宗教みたいだ」と言えばいいのです。

上記記事では、

だが、これは宮川選手の家族の人権や名誉を侵害する問題発言である。

と批判しています。いくら何でも「宗教」 は言い過ぎだろうということです。一般社会の宗教に対する評価はそういうものなのです。

さすがに「宗教」は言い過ぎだったと反省したのでしょう。発言した人は、

思わず、たとえとして『宗教みたい』とは言ってしまいました。この言葉については不適切だと大変反省しております」と、反省を込めて認めた。 

 と謝罪したのだとか。

 

ゼロ葬

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Widely Varying Funeral Service Prices Spark Controversy – Supportive Care Matters

 

先日、親族が亡くなりました。大変な高齢でして、早朝に病院で亡くなったのですが、数日間健康状態が良好だったこともあり、近親者が留守にしていましたので、こちらに連絡があり、手続きと処理を進めてほしい、ということでしたので、行いました。

病院で亡くなった、ということで、僕が行ったときには既に死亡診断書ができていました。夏場ということもあり、なにはともあれ、まずは火葬を済ませよう、ということで、葬儀社に連絡し、遺体を斎場へ運んで明日までの安置をお願いし、その足で役所へ行って死亡届を提出して火葬許可状を受け取りました。

翌日、火葬を行い、骨を骨壷に拾い集めました。

故人が生前、葬儀などは大げさにしないように、と言い残していた、ということでしたし、暑いさなか葬礼に集まっていただくのもどうか、ということで、所属教会に断った上、告別式は、故人が晩年教鞭を取っていた大学の関係施設のチャペルで、ささやかに行おう、ということになりましたので、その足で骨壺を持って電車に乗り、チャペルに向かいました。到着すると、既に親族が集まっていて、オルター前に遺影が用意されていましたので、骨壺をその後ろへ置きました。

酷暑の昼下がりなのに、牧師は、黒いカソックに、よく糊の効いたらしい純白のネックバンド、短白衣、黒のストール、という最上級の正装で、10名ほどの歌隊も黒の正装で、遺骨を迎えてくださいました。

あとは僕や帰宅した家族も含めて、遺族が10名ほどのひっそりとした式だろう、と思っていたのですが、どこで知って下さったのか、式が始まるころには、100名入れる程のチャペルがいっぱいになり、席に座れず、立ったままでの参加のかたもあるほどになりました。

献花などの儀式めいたことは省略して頂いて、とお願いしてありましたので、書簡の朗読、賛美歌、説教、と滞り無く進んでおよそ40分ほどでした。閉会の賛美歌は「神ともにいまして」でした。卒業式でよく使われる曲です。礼拝ではあまり使われない曲だと思っていましたので、少し意外な気持ちがしました。

 

斎場で、たまたま同じ時間に火入れとなったご家族がおられまして、お互い、暑いですね、ご家族ですか、などとお話をしたのですが、あなたも「ゼロ葬」ですか、と聞かれました。「ゼロ葬」とは初耳でしたのでお伺いしますと、お金がありませんし、参列者もどうせありませんから、葬儀はしないんです。墓も作りませんから遺骨は持ち帰らないで、全て斎場におまかせするんです。とのことでした。僕が一人だけで、お寺さんのご祈祷もなしで火葬している様子を見て、おなじくゼロ葬だろうと思ってそうおっしゃったのだと説明して下さいました。

僕も、そういうことに関しては合理的に考える方だと思っていたのですが、骨も持ち帰らない、ということを聞いて、驚いてしまいました。

キリスト教であれば、葬式のお礼としてお渡しする金額も数十万円で済みますが、仏式では、ホールなどで簡単に済ませたとしても、安くて100万円ほど、墓を新たに建立するとなると200万円ほどもかかるそうです。もう、なにもかも無しでいいや。ゼロ葬だ、となってしまうのも無理はないのかもしれませんね。 

マタイの福音書 22:32に、

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

とあります。葬儀や埋葬のめに、サラ金で借金をするようなことは、故人の本意ではないでしょう。ゼロ葬のほうがイエス様の指導に近いのかもしれません。

 

ゼロ葬についてはこちら  

0葬 ――あっさり死ぬ (集英社文庫) Kindle版

律法

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「律法」と聞くと、あの、禁止事項や命令がたくさん書かれている、いわゆる宗教規則のことだろう、と理解される場合がほとんどでしょう。日本の法律でも同じことです。してはいけないこと、何かを行いたいときに従うべき規則などが細かく定義されています。

法律って、結局のところ、何なの、どういうことなの? ってお考えになったことがあるでしょうか。法律を一言で言い表すとどうなるんでしょうか。法律とは、律法も同じですが、取りも直さず、

「良い世の中を実現しましょう」

ということを言っているのです。本当はそれだけで良くて、それ以外のことは何も言うべきではないのです。しかし、実際にはそれだけでは世の中は良くなりません。これが現実です。人間はそれほど頭が良くはないからです。良い世の中を実現するためには、これをしてはならない。その場合はこうしなければならない、と、細かな規定を文章化しておかなくてはなりません。すなわち、日本の法律であったり、聖書の律法であったりがこれですね。 

福音書を読んでみましょう。マタイ伝 5:17-18

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 

これを読んで、やはりエルサレムには唯一神殿が必要なのだ、と理解する人がいるようですが、よく読んでみると、イエス様は、律法や預言者を「成就するためにきたのである」と発言されていますよね。なぜならば、まだ成就していないからです。律法の文言を一つずつ、無機質に解釈し、そのとおりやればいいのだろう、と言ってそれを行ったとしても、それでは神の考えを実現したとは言えないよ、と言っているわけです。神は「良い世の中を実現しましょう」と言っているのです。禁忌事項を避ければそれでOK、ではないのだよ、ということです。

福音書ををもう一箇所見てみましょう。ヨハネ伝 8:4-7

 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

この箇所の礼拝説教では、罪人が罪人を裁くことの愚かさ、が指摘されているのだ、と説明されるのではないかと思いますが、「律法を一言で言うと何か」に照らし合わせて考えてみれば、ただそれだけでは無くて、もっと厳しい意味合いがふくまれている、と考えるべきでしょう。

すなわち、一人ひとりが律法の真髄を心から理解し、自分一人が無罪たらんと身を守ることでなく、世の中全体をみることこそがそのまこと、であることを知っているのであれば、そもそも、身を売ることによってしか生活することができない者が存在しないはずではないか、そのような貧窮者が存在する世の中をしか実現できていないことを、自らの恥とは思わないのか、

と言っているのです。

マタイ伝17:2-3に、

ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 

とありますが、これは、弟子たちがイエス様の説教を聞いて、それが、真実の律法であり、同時に真実の預言である、と感じた、と伝えているわけです。モーセは律法の、エリヤは預言の象徴として喩えられています。

 

いかがでしょうか。万人救済主義が間違いだとか嘆かわしいとかつぶやいている人がいますが、そんなどうでもいいようなことよりも、イエス様の発言の内容をきちんと理解しておいたほうがいいと思いますよ(笑)。

 

カトリック司祭300人以上が児童性的虐待か

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カトリック司祭300人以上が児童性的虐待か、米ペンシルベニア州」という報道がありました。引用してみましょう。

【AFP=時事】米ペンシルベニア州カトリック教会で300人以上の司祭が児童を性的に虐待したという信頼できる申し立てがあり、カトリック教会が長年隠蔽(いんぺい)してきた1000人を超える被害者が特定された。14日の大陪審の報告書で明らかになった。

 報告書はペンシルバニア州カトリック全8教区のうち6教区における児童の性的虐待について、目撃者数十人の証言と約50万ページの教会内部文書に基づいてまとめられた。これまでで最も包括的な内容とされているが、新たに起訴できる事例の件数は今のところ明らかになっていない。

 大陪審は記録が消失した、または名乗り出る勇気のない子どもがいることを考慮すると実際の被害者は「数千人」規模と推定している。

 教会の隠蔽により、ほぼすべての虐待事例は時効により起訴できないが、報告書はこの10年間に少なくとも2人の司祭が児童を性的に虐待したとしている。報告書によると被害者の大部分は少年で、多くは思春期前だった。アルコールやポルノで操られた例もあるという。【翻訳編集】AFPBB News

いかがでしょうか、キリスト教会は犯罪者によって運営されている団体だと言っても言い過ぎではないところにまで来ている、ということでしょう。

もともとそうだったのでしょうが、最近になってそういう事柄が明らかになりやすくなってきたのだと思います。

ペンシルベニア州カトリック教会には、300人の犯罪者がいて、1000人がその被害者だと言うのですから、目も当てられない悲惨な状況だと言えるでしょう。

偏見のそしりを恐れずあえて言わせていただきますが、これを見る限り、同性愛者には性犯罪に走りやすい、という本質があって、カトリック教会という組織はその温床となっている、と言えるのではないでしょうか。

おそらくは、自分たちのサラリーを献金として支払い続けてくれている信者の、子どもたちをも陵辱したのでしょう。自分たちの汚らわしい性器を、純真なこどものアヌスへ挿入して、人間性玩具にしてしまったのです。まさに鬼畜の行いですね。このような低劣な団体に所属し続けて、唯々諾々と金を支払い続けている方々も同罪だと思います。

もし本当に神が存在するのなら、笛吹けど従わない、愚かな山羊をしか育てることができなかった不甲斐なさを恥じて、舌を噛んで自死していることだろうと思いますよ。

やはり、カトリックは愚かな偽教会、とほくそ笑んだ人たち、これが明らかになったのはカトリックだからですよ。意味が理解できればいいんですけど(笑)。