キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

同仁キリスト教会について

f:id:christian-unabridged-dict:20180702085806j:plain

同仁キリスト教会

 

過去記事

 

で、最も危険度の低い(安全という意味ではありません)教会はユニテリアンだろう、と結論付けて、しかし残念ながら日本にはありません、と締めくくったのですが、日本には「同仁教会」がある、とご指摘いただきましたので、ご紹介させていただくことにしました。

幸い、教会のサイト があるようですので、ご覧いただければ一番よろしいでしょう。

同サイトの説明によれば、

1890年、アメリカ、ユニテリアン・ユニバーサリスト教会からベリン牧師他2名の宣教師団が来日し、クリスマスに九段下飯田町に教会堂建設。

とあり、既に100 年以上の歴史があるようです。また、戦時、一時的に日本キリスト教団に合併されたようですが、戦後再び独立した、という経緯があるようです。

ユニテリアン・ユニヴァーサリズム - Wikipedia によれば、

多くのUU教徒は自身のことをヒューマニストであるとしている。他のUU教徒はキリスト教、仏教、ユダヤ教や自然崇拝、無神論、不可知論、博愛主義等をUUと同時に信仰している。中には教義の名前を特に使用せず様々な信仰を組み合わせている信者もいる。このような多様性はUU教徒から運動の利点と考えられていると同時に、各自比較的統一された教義と習慣を持つ(カトリックプロテスタントユダヤ教大乗仏教等)各宗教団体の中には教義を持たないUUを支持しない所も多い。UUは個人が自己や社会、自然との繋がりの中で各自意味を追求することを重要視し決められたドグマを持たないからであるとされている。

とあります。

実際行って確認していませんのでなんともいえませんが、同教会のサイトを見ますと、教会の外観にも、講壇上にも十字架が掲げられていますし、牧師はガウンを着用していますし、組織名称が「キリスト教会」であることなどからも、Wikiが説明するユニテリアン・ユニバーサリズムのイメージよりは、普通のプロテスタント教会に近いように感じます。

また、

礼拝は神を称える賛美歌を歌い、祈り、牧師は聖書を通して示される神の御心を伝えます。静かに自分の心に目を向け、神と対話する時間を大切にしています。キリスト者にとって信仰生活の中心になるものです。

というような説明をみますと、ユニテリアン・ユニバーサリスト、というよりは、リベラルなプロテスタント教会、と考えたほうがよさそうです。

興味がある方は、一度見学してみてもいいかもしれません。

「この杯」とは何か

f:id:christian-unabridged-dict:20180701130212j:plain

Gethsemane

 

マタイの福音書 26:39

そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

 マタイの福音書 26:42

また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。

「この杯」とは何のことでしょうか。たとえば

「この杯」が意味するもの - 牧師の書斎 というサイトでは、

エスと弟子たちが過越の食事をしたことが、同じ章の14節から記されています。ちなみに、ルカ22章には4回、「杯」と訳される「ポテーリオン」ποτηρίονが出てきます(17節、20節、20節、42節)。すべて同じ言葉です。マタイの福音書20章22節では「わたしが飲もうとしている杯」があることを述べています。ヨハネ福音書18章11節では、その杯は「父がわたしに下さった杯」と表現されています。それはイエスにとってはどうしても飲まなければならない「杯」でした。ここでいう「杯」というのは、「杯」という器そのものではなく、杯の中身が重要なのです。そこで、ユダヤ的(へブル的)視点から理解するならば、「この杯」とは、「過越の食事」で飲まれる「第四の杯」を意味しているのではないかと考えられます。「第四の杯」とは、過越の食事の「完了の杯」でもあり、同時に「賛美の杯」ともなるものです。

ゲッセマネでの祈りにおいて、イエスはこの第四の杯、すなわち、神の小羊であるキリストによって結ばれる新しい契約が成立するためには、完了を意味する「第四の杯」を飲み干さなければなりませんでした。しかしそれは壮絶な苦しみを味わわなければならない杯であり、ゲッセマネの祈りにおいて、イエスはその苦しみのゆえに躊躇しています。とても飲み干せるような杯ではなかったのです。それゆえに、御使いたちが天からイエスに現われて、イエスを「力づけた」とあります(22:43)。

それでもイエスは「苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。しかしその祈りが突き抜けたことによって、イエスは「立ち上がり」ました。この「立ち上がる」という動詞は「ア二ステーミ」
άνίστημιで、いわば、復活用語です。まさにイエスは祈りにおいて、すでに勝利し、以後、敢然とひるむことなく、捕縛され、受難の道を進まれるのです。しかし、最後の最後、すなわち十字架上において、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取られたことにより、22;42の「この杯」が飲み干されました。つまり、過越の食事の最後の杯である「完了の杯」を飲み干されたのです。この杯を飲み干したのはイエスただひとりでした。

なんとなくわかったような気がしなくもないが、何一つ意味をなす説明がなされていないかのようでもあり、まあ、宗教の説教なんて言うものはこの程度のものなのでしょう。

福音書のこの箇所は、いわば「シャレ」なのです。特に深い意味はありません。福音書が著された当時、ローマ帝国周辺では「ディオニュソス教」という宗教が流行していました。ローマ神話から独立した新興宗教で、ゾロアスター教やミトラス教などと競争関係にあったはずです。 

でも取り上げているのですが、ディオニュソスは、巨人や信者の女に八つ裂きにされて食べられてしまいますが、福音書は、当時のメジャー宗教であったディオニュソス教を意識しながら書かれているのです。

つまり、「杯」は民衆の要求を、杯に注がれるワインはイエス様の命を象徴しています。「この杯を遠ざけてください」という発言を読んだ民衆は、「なるほど、ディオニュソスの死を彷彿とさせるな」と感じたでしょう。宗教の説話は宗教としてのセオリーを踏んで、宗教としての雰囲気を身に帯びていなければならなかったということです。だから、

「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」

と発言させて、民衆が敵であるとは考えていないよ、とアピールしているわけです。

そういった事情を知らないまま、想像で「杯」 を説明しようとするから、言語学者が動詞の変化を説明しているかのような奇体な文章になってしまうのではないでしょうかね。

キリスト教のライバル宗教を殲滅してしまった結果、福音書が何を言っているのかわからなくなってしまった、ということです。

バアルと悪魔

f:id:christian-unabridged-dict:20180627203439j:plain

バアル - Wikipedia より、「シリアのパルミラにあるバアルの神殿(ベル神殿)」

 

マタイ伝 12:22-28 を読んでみましょう

そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

 

エス様が「ベルゼブル」を悪魔だと言っている。それ見ろ、悪魔はやっぱりいるんじゃないか。福音書でイエス様がそう言っているんだから、と思われたでしょうか。

 

 まあ、ちょっと待ってください。それでは「ベルゼブル」について調べてみましょう。

 

ベルゼブブ - Wikipedia では、

本来はバアル・ゼブル (בַעַל זְבוּל [Ba‘al zəḇûl])、すなわち「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。これはおそらく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる。 パルミュラの神殿遺跡でも高名なこの神は、冬に恵みの雨を降らせる豊穣の神であった。一説によると、バアルの崇拝者は当時オリエント世界で広く行われていた、豊穣を祈る性的な儀式を行ったとも言われる。

しかし、イスラエル(カナン)の地に入植してきたヘブライ人たちは、こうしたペリシテ人の儀式を嫌ってバアル・ゼブルを邪教神とし、やがてこの異教の最高神を語呂の似たバアル・ゼブブすなわち「ハエの王」と呼んで蔑んだという。これが聖書に記されたために、この名で広く知られるようになった。

バアル - Wikipedia では、

バアル(聖書ヘブライ語(英語版): בַּעַל ba‘al、ウガリット語: b‘l)は、カナン地域を中心に各所で崇められた嵐と慈雨の神。その名はセム語で「主」[1]、または「主人」「地主」を意味する。バールや、バビロニア式発音のベール、およびベルとも表記される。 

とあって、ベルゼブルが「気高い主」という意味で、 イスラエルの周辺国の民族宗教の神の名前であったことがわかります。

そのころは、どこの国でも神を「主」と呼んでいたことがわかりますね。ヘブライ語ではアドナイ、ギリシャ語ではキュリオス、ラテン語ではドミネ、となるようです。

例えば、日本の神話におけるアマテラスをライバル視し、悪魔だと想定して、「悪魔」という代わりに「アマテラス」と表現することによって神社を蔑視している、と言い換えればわかりやすいでしょう。その場合、言っているひとは、アマテラスが実在すると考えているでしょうか。そうは考えていないですよね。

福音書のこの表現、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」からは、パリサイ人が「ベルゼブルは実在する悪霊のかしら」だと考えていたのか、比喩としての発言に過ぎなかったのかはわかりませんが、現代のクリスチャンの発言を見ていますと、どうやら、神社仏閣には本当に魔物が住んでいる、と考えている人がいるような気がしてなりません(笑)。

無原罪の聖母の画像を見てください。

f:id:christian-unabridged-dict:20180627210615j:plain

足元の蛇は邪悪の象徴だと納得するとしても、月は何でしょうか。純血の象徴だとか、

黙示録12:1

また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。 

の意味だとか、いろいろな説明があるようですが、実際には、これは「イスラーム」を象徴しています。表(ネット)には出てきませんが、お釈迦様が踏みつけられているバージョンのものも探せば結構あるのだとか。

エス様は、「おまえ馬鹿じゃないの、落ち着いて考えてみろよ」、という意味で「ベルゼブル」の名前を出して、つまり、わかりやすいように相手の価値観まで降りていって諭された、と伝えられているわけです。それを、それ見ろ、やっぱいるんじゃないか、ということにしてしまうのはどんなもんなんでしょうかね(笑)。

それにしても絵画程度ならともかく、正典の文中で、他の宗教を名指しで蔑む、なんてのは本物では無い証拠なんじゃないか、と思わざるを得ないですね。

 

ナルドの香油に学ぶキリスト教徒のあり方

f:id:christian-unabridged-dict:20180626085141j:plain

Anointing of Jesus - Wikipedia

 

四つの福音書、全てに記されている「香油注ぎ」というエピソードがあります。ご存知のように、イエス様が、真のキリスト、つまりメシア、油注がれたもの、であることを強調するための挿話であるとか、死の予兆とその悲哀を強調するためであるとか、いろいろな解釈があります。

僕は、香油の相場価格がおよそ300デナリオンだった、と記されている点に注目したいと思います。

聖書の貨幣 | 布忠.com によれば、300デナリオンは150万円から182万5200円とのことです。随分高価なものですよね。

つまり、「良い」と判断したことなら、思い切ってつぎ込むことも必要な場合があるよ、と言っているのだと思います。

 

現実的な日本のキリスト教徒の人口比率はおよそ0.4%だと言われています。2016年の日本の人口は1.27億人ですから、すべてのキリスト教徒はだいたい50万人、そのうちある程度の経済力のあるものが半分だとすると25万人です。

25万人の人が毎月500円寄付したとすると、一年に15億円、10年では150億円になります。どのようなものかはともかくとして、立派な福祉事業のための資本となり得るでしょう。

エキュメニズムといえば、旅行先の別教派のきれいな教会で聖餐を受けられるかどうかの問題だと考えているひとがほとんどだと思いますが、キリスト教徒であることの本当の価値、可能性は何か、ということを考えてみようとは思わないでしょうか。

 

「不思議なキリスト教」に群がる人たち

f:id:christian-unabridged-dict:20180625125745j:plain

アダムの創造 ミケランジェロ 西洋絵画美術館


ふしぎなキリスト教」という講談社の現代新書があります。このブログをご訪問くださる方でしたら耳にされたことがあるでしょう。それで、その内容を批判する

というサイトがあることは予てから知っていました。知っていた、というよりは、このサイトを発見したので「ふしぎなキリスト教」という著作物があることを知ったのです。以前のブログでも取り上げましたが、最近また新しいことがわかりました。次のサイトです。

こういう批判サイトを開設するのは、キリスト教がよくわかっていない新興キリスト教のにわか信徒か、単立教会のなんちゃって牧師か、いずれそういう手合が脊髄反射しちゃってるんだろうと思っていたのですが、実際は日本ハリストス正教会の神父だったのです。

と言ってもさほど驚きはしませんでした。駿河台のニコライ堂など、何回か正教の礼拝を見学したり、信者や教役者と話したことがありますが、どうもチャラチャラしているというか、不真面目な感じのする人は多かったです。ニコライ堂の礼拝を見学していたときに、東大で教えている、というフランス人の信者のおじさんに誘われて、広尾の自宅までのこのこ付いていったことがあるのですが、結局同性愛目的だということがわかって、早々に退散した、というようなこともありました。礼拝式など荘厳で建物も立派なのですが、まあ、見掛け倒し、中身はスカスカ、ということなんでしょうか。

そもそも、ただケチをつけているような稚拙な内容に、ムキになって殴りかかっているようなもので、とても滑稽な感じです。

前のサイトでも取り上げた内容なのですが、再度引用してみましょう。

疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 - ふしぎなキリスト教 @ ウィキ - アットウィキ

橋爪氏は「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」と、「創世記を読んで受ける印象」をまとめた上で、「神がもともと姿もなく、世界の外にあって世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。」と述べている。

 これに対しての神父の批判が

前提がどちらも間違っている。

「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」そのような記述は創世記のどこにも無い。「主なる神の歩まれる音を聞いた」(創世記3:8)の記述を念頭に置いているのかもしれないが、ここでは「音」しか聞こえておらず、姿は見えていない(この「音」の単語・訳語を巡り解釈は割れており、瑣末な問題とは捉えられない)。「だいたい人間と同じ大きさ」に至っては、一切記述がない。「かたちに似せて」作ったものであっても、等身大とは必ずしも限らないことは、世間にある人形、ぬいぐるみ、模型などを見ても明らかであろうが、橋爪氏には「似せて」=「等身大」というふしぎな思い込みがあるようである。

また、「神が世界の外にあって」というのも典拠不明の珍説。少なくともキリスト教ではそのように教えられていない。橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、ここにも橋爪氏の大枠で一貫した誤解が示されている。→聖書篇(p75, p76)、神学篇(p312)も参照。

勝手に、誰も言っても書いてもいない、自分の思い込みを二つ並べ「矛盾しているのでは?」と問いかける橋爪氏。誰も言っても書いても居ないふしぎな独自解釈を前提に、独自議論を展開してふしぎがる。ふしぎ拡大再生産。

 

 創世記 3:8-13を読んでみましょう。

彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。

 神がだいたい自分たちと同じ大きさであることを知っているから、アダムは神の顔を避けて身を隠そうとした、と理解するべきでしょうね。また、神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけています。神の身長が10メートルほどあるのであれば、聞くまでもなくわかるはずです。聖書が示唆する論理的な意味合いを別にするのであれば、この箇所が読者に与える印象は、「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」で間違いないと思います。それに、文章を読んで受ける印象さえ、万人が一様でなければならないものでしょうか。

「世界の外にあって世界を創造した」は、上のミケランジェロフレスコ画で、神が空中から指をもって、アダムを創造していることからもわかるように、神は、空中、すなわち異なる世界から、間接的にこの世を創造したのだろう、と考えることはそう外れたことではないと思います。であれば、足音が聞こえるほどアダムのそばにいた、と記述されていることとは矛盾しないか、と思うことは自然なことだと思います。

「そう思ってはいけない」「そう思っていると表明してはならない」と言って、人の心までおもうがままに操ろうとするのがキリスト教側のやり口だということがよくわかりますよね。

ユダヤ教は排他的か

f:id:christian-unabridged-dict:20180625093901j:plain

ユダヤ教 - Wikipedia から引用します。

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が」聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる、と考える。「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができる。

「寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19)」

すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされる。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある。

ユダヤ教を信仰する者をユダヤ人と呼ぶ一方、形式的に考えれば初期のキリスト教徒はすべてユダヤ人だったのであり、「ユダヤキリスト教徒」という矛盾を含んだ呼称も成立する。世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうるのであり、ユダヤ人は他宗教に改宗することによって、もはや狭い意味での「ユダヤ人」ではなくなってしまう。これは民族の定義を血縁によるのか、宗教によるのか、「ユダヤ教」が「民族宗教」なのか、あるいは「ユダヤ人」が「宗教民族」ともいえるのか、といった問題につながる。

このように、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在(ヘブライ語ラテン文字転記:maqom)すると考える傾向(特にハシディズムに良く現れる概念)があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない[要出典]。

だれでも、たとえ日本人であってもユダヤ教徒になることができる、ということですね。「非ユダヤ人は労役に服するという差別性がある」とあるものの、「世界中の全ての民族は「ユダヤ教」に改宗することによってユダヤ人となりうる」ともありますから、その差別も払拭されてしまうことになるでしょう。

つまり、本質的な意味において、キリスト教は発生する必要が無かった、ということになります。イエス様が現れたことが本当だとしても、その運動はユダヤ教の範囲内で行えばそれで十分だったわけです。そのほうが、理屈としてずっとわかりやすいものになっていたはずです。シナイで交わされた契約がこれからも変わらず有効であって、聖書の記述内容は永遠に価値を変えないままだと説明することができます。

キリスト教を設立しなくても、ユダヤ教は、そのままで世界宗教になり得たのです。

では、ローマ国教選定時に、なぜユダヤ教ではなくて新しい宗教を作成する、という結果になってしまったのでしょうか。理由は2つあったと思います。

1つは、首都を限定されてしまうということです。ユダヤ教である以上、首都をエルサレム以外の都市に置く、ということはできないでしょう。これは非常に都合が悪いことでした。

2つめは、613もある戒律です。たとえば

「196. 肉と乳が一緒に調理されたものを食べてはならない」

なんてのを守らなければならないのであれば、ブッフ・アラクレムを食べられなくなってしまいます。そして、一番困るのは「割礼」です。割礼なんて、国民に拒否られてしまうことは火を見るよりも明らかです。

キリスト教という宗教は、オトナの事情で、ローマ帝国が仕方なしに渋々作成した屁理屈宗教だった。

実情はこんなとこでしょう

ユダヤ、キリスト、イスラームの神は同じ神か

f:id:christian-unabridged-dict:20180624102105j:plain

ユダヤ教キリスト教イスラーム旧約聖書を、キリスト教イスラーム新約聖書を教義経典に採用していることから、3つの宗教の神は同じ神である、と言われることがあります。

アッラーフ - Wikipedia には、次の説明があります。

イスラームの教えは先行するユダヤ教キリスト教を確証するものであるとされるため、アッラーフユダヤ教キリスト教ヤハウェと同じであるとされる。一方でユダヤ教キリスト教はこれを認めていないが、近年キリスト教の一部でも同じ神として礼拝をしている教会もある。

しかし、同じ教典を元にしているから、というだけの理由で、それらが同じ神である、と言うには無理があるでしょう。旧約聖書ユダヤ教のオリジナルだとしても(厳密にいえばそれさえもそうは言い切れないのでしょうが)、キリスト教旧約聖書の関係は相当あやふやです。あえて言えば、新約聖書旧約聖書ありきで著されている、ということでしょう。だから、ユダヤ教、すなわち旧約聖書とは無関係とは言えない、という程度の結びつきでしかありません。キリスト教の実体は、キリスト教成立当時、地中海沿岸あたりで流行していた民族宗教が変化してまとめられたものに過ぎないのです。

イスラームについては、Wiki「アッラーフ」で、

考古学的見地では、ヤハウェイスラーム教の唯一神アッラーフは別の起源であり、イスラム教の唯一神アッラーフは、630年以前は、カアバ神殿に祭祀されていた最高神の呼称である。イスラム教でいうジャーヒリーヤ(無明時代)に、カアバ神殿に祭祀されていた360の神々の最高神アッラーフとされていた。

と説明されているように、元々はアラビアの多神教であったものを、洗練された最新の流行宗教である、キリスト教に影響されて、整理し直したもの、と言えるわけです。

キリスト教イスラームも、自分たちの権威をアピールするために、一から教典を新作するのは面倒だから、既成の教典をパクって転用したということですね。

また、本来であれば「神」という言葉は、日本の神を指す言葉であって、キリスト教の、空想の絶対君主的立場を表すために用いるのは誤りであるわけです。日本人はそれを禁止まではしませんが、同Wikiによれば、

東方正教会アンティオキア総主教庁アッシリア東方教会ネストリウス派)、シリア正教会非カルケドン派)などでは、創造主を「アッラーフ」と訳している。しかしながらマレーシアではイスラム教徒以外が用いることが制限されており、同国でカトリック系新聞『ヘラルド』が掲載した際には、政府から使用禁止が命じられた。この使用禁止命令は、一時はマレーシアの高等裁判所により取り消され、使用を認める判決が下されたが、2013年10月14日、マレーシアの上訴裁判所は高裁判決を破棄して、イスラム教徒でない人々が神を表す言葉として「アラー」を使うことを禁じる判決を下した。

とあります。「アラー」が「神」同様に、一般名詞のようなものであっても、国によっては、イスラームのそれ以外に対しては用いてはならない、と禁止されているわけです。

キリスト教の神を 「アラー」と呼ぶなんて、とあざ笑ったあなた、「神」と呼ぶのも同じように変なことなんですよ。「神」と呼ぶことは、習合の一つだと思います。伊勢の神宮で柏手を打って国家の安泰を願うのと同じことでしょう。

これからは「神」とは言わず、「アドナイ」とか「エロヒーム」とか「エルシャッダイ」とか言うようにお勧めしますよ(笑)。