キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

女牧師

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面白いサイトを発見しました。下のサイトです。

ルーテル教会のサイトのようですが、女が牧師になることに対して、反対の立場を主張しているようです。引用してみましょう。

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。聖徒たちのすべての教会で行われているように、婦人たちは教会では黙っていなければならない。彼らは語ることが許されていない。だから、律法も命じているように、服従すべきである。もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。あるいは、あなたがただけにきたのか。もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節、口語訳)

すなわち、女性は「教会」では黙っていなければならない、ということです(14章34節)。「教会」(ギリシア語で「エックレーシア」)という言葉でパウロが意味しているのは、ほかでもなく聖餐式を行う集まり、すなわち礼拝のことです。このことは、上掲の箇所の少し前のところ(11章17〜34節)で、パウロが教会員たちに聖餐式への参加の仕方について指示を与えていることからもわかります。なお、この箇所(11章18節)でも聖餐式を行う集まりが「教会」(「エックレーシア」)と呼ばれています。

上記のことを踏まえると、「女性は教会では黙っていなければならない」という禁止命令は、聖餐式の行われる教会の集まり(すなわち礼拝)において女性が教える(礼拝で説教する)ことを禁じている、という説明が自然であると思われます。なぜなら、パウロは同じ手紙の中で、女性が礼拝参加者の祈りを導いたり、預言したりすることについては許可を与えているからです。 

 ごもっともです。「教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。」と確かに書かれています。だから、女は教会で黙っているべきなのです。

次の箇所も引用しておきましょう。

「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」2章9〜15節、口語訳)

この箇所でもパウロは礼拝のための指示を与えています。ですから、この同じ文脈で与えられている「女性が教えることを禁止する指示」もまたやはり礼拝に関わる指示であると理解するのが自然です。教会の牧師の中心的な使命は、礼拝で説教して教会員を教えることだからです。

僕の場合、所属教会は比較的リベラルな風潮であったのですが、どういうわけか、牧師も副牧師も男性ばかりでした。学生時代に一時的に所属していた教会にも女性の牧師はいませんでした。女性の牧師をどう思うか、といえば、食堂の真ん中で脱糞している人、という感じです。全く場違いな、不謹慎な、不衛生な、不道徳な、そういう気持ちがあります。

少し言い訳するのなら、僕は、男女間で職業を差別する気持ちは全くありません。男女に関わりなく、可能な仕事であれば何でもその人の希望する仕事を行えばよいのです。

しかし、男と女は違うものです。男は女子プロレスでレスラーとして働けないし、巫女にもなれない。また、助産師になることもできません。

同様に女子は牧師や神父になってはならないのです。なぜなら、聖書に「婦人たちは教会では黙っていなければならない。」と書いてあるからだし、「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。」とも書いてあるからです。何か違うでしょうか。なぜ聖書に従う、と言いながら、聖書に反することを認めなければならないのでしょうか。

キリスト教という世界は女性を制限する世界なのです。聖書が書き換えられる可能性がありますか? ないですよね。嫌なら止める。そのほうが賢明だと思います。

 

善と悪

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創世記やヨブ記では、人に訪れる転機や試練、苦悩、と言うような事柄を「悪魔」という存在に例えて説明していますが、悪魔は神の手下、または神の一部として表現されています。一見、悪としか理解できないような事柄であっても、実際には恩恵である場合もある、と教えているわけです。

過去の記事「悪魔」も参考になさってください。

善とは「安定」であり、悪とは「不安定」である、と整理することもできるでしょう。プレートのズレによって不安定が生じ、地震という現象によって安定を取り戻します。地震は、人に災害を及ぼして不安定を与えますが、自然にとっては安定を取り戻すことになります。

申命記 3:1-6 を読んでみましょう。

そしてわれわれは身をめぐらして、バシャンの道を上って行ったが、バシャンの王オグは、われわれを迎え撃とうとして、その民をことごとく率い、出てきてエデレイで戦った。時に主はわたしに言われた、『彼を恐れてはならない。わたしは彼と、そのすべての民と、その地をおまえの手に渡している。おまえはヘシボンに住んでいたアモリびとの王シホンにしたように、彼にするであろう』。こうしてわれわれの神、主はバシャンの王オグと、そのすべての民を、われわれの手に渡されたので、われわれはこれを撃ち殺して、ひとりをも残さなかった。その時、われわれは彼の町々を、ことごとく取った。われわれが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十。アルゴブの全地方であって、バシャンにおけるオグの国である。これらは皆、高い石がきがあり、門があり、貫の木のある堅固な町であった。このほかに石がきのない町は、非常に多かった。われわれはヘシボンの王シホンにしたように、これらを全く滅ぼし、そのすべての町の男、女および子供をことごとく滅ぼした。

ここで、イスラエルにとっては、神に命じられてオグの国民を殺戮することは正しいこと、「善」であったわけですが、オグの国民から見れば、狂気の集団が、不法に略奪を行った、となり、イスラエルは「悪」である、ということになるでしょう。

善悪は相対的なものであり、世の中には絶対的な善や悪は存在しないのだ、ということがわかります。殺人は絶対的な悪ではないか、と思わるかもしれませんが、それも人が決めたルールなのであって、自然界全体からみれば、やはり「相対的である」という観察が揺らぐわけではありません。

人が安定的に生活を続けるためには、何をどのように理解すればよいのか、その一つの提案が宗教であり、ゾロアスターのような二元論であれば、神を安定の、悪魔を不安定の象徴とし、アブラハムによる一元論であれば、神がその両方の象徴になります。

しかし、このように事実を無味乾燥な言葉で羅列したとしても、人の心にはなにも響きません。政治的に善悪を区分する必要を満足させるためには、寓話化が必要だったというわけです。それが「聖書」だということですね。

日ユ同祖論 に同調するわけではないのですが、日本の神は善悪同源であって、一神教的だと思います。伊勢の神宮には「荒祭宮」がありますが、神宮正殿には主祭神の和御魂(にぎみたま)が、荒祭宮には荒御魂(あらみたま)が祀られていて、安定と不安定の根源が同じであると理解していることがわかります。また、京都の八坂神社は、荒御魂を祀る社を「悪王子社」と呼んでいて、「悪」の本来の意味が、荒々しい、とか、力強い、ということであったことを伝えています。

 

少なくとも、神と悪魔が戦っている、だの、現代社会は悪魔に支配されている、だの言っている教会や牧師は、「一神教」の意味を理解できていない、ということになるでしょうね。

神の幼少期

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新約聖書外典のひとつに、「トマスによるイエスの幼児物語」というものがあるのだそうです。次のサイトで紹介されています。

恐るべき幼時のイエス

少し引用してみましょう。

律法学者アンナスの息子が柳の枝をとり、イエスが集めた水を流してしまう。腹を立てたイエスが少年に向かって「目の前の木のようになるだろう」と言うと、少年は木のように立ち枯れしてしまった。またイエスが村を歩いていると、走ってきた子供がイエスの肩にぶつかった。ここでもイエスは腹を立て、「もうこれ以上進むことはないだろう」と言うと、少年は即座に倒れ、死んでしまった。

子供のころは、随分気が短かったようですね。これは外典ですが、正典である福音書にだって、結構アレな記述がありますよ。たとえば、悪霊をブタに閉じ込めて崖から落として殺してしまった、だの、水の上を歩いた、だの、樽いっぱいの水を上等のぶどう酒に変えた、だの、甚だしきは、死んだのに三日後に生き返っただの、とても正気の沙汰とは思えないトンデモな内容でいっぱいです。

また、使徒行伝には「アナニアとサフィラの物語」という箇所があります。引用してみましょう。

使徒行伝 5:1-11

ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。

随分簡単に人が死んでしまっていますが、イエスの幼少期物語に似たところがあるように思います。僕は、こういう表現こそイスラエルに由来する宗教の本質を表していると思います。

レビ記 10:1-2

さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。

「異火」とは聞き慣れない単語ですが、要するに異教に関する火を用いて香を薫じて捧げた、ということなのでしょう。日本にも「忌火」という考えがあり、神饌の煮炊きは特別な火を用いる決まりがあるようです。

そんなことのために、と感じますが、神はそれで良いわけです。人の命よりも、「神聖」を守ることは重要なことだからです。人が人を殺すと神によって裁かれますが、神が人を殺すことは全く自然なことです。たとえ老衰によって死んだとしても、それは、神が彼を殺した、ということになります。

神とは、本来「トマスによるイエスの幼児物語」に描かれたイエス様なのです。神は人の生命を好き勝手に活かしたり殺したりするものなのです。

そういう「神」という存在を畏怖することが、政治であり、宗教でもあったのです。ところが、徐々に様式が洗練されていくうちに、政治にそのような要素は不必要になってしまったので、神の性質が都合にあわせて変化したわけです。

ですから、「地震や天災で死ぬことは神の罰の現れ」と考えている人は、オリジナルに忠実な人であって、宗教的にみれば「正しい」ということになると思います。

携挙

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Rapture, Up, Up and Away

 

「携挙」という言葉をご存知でしょうか。 プロテスタントの一部の教派だけで取り上げられている事柄のようですが、 携挙 - Wikipedia では、

携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

 と説明されています。根拠となる聖書の箇所は、テサロニケの信徒への第一の手紙の 4:16-17

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

によるのだそうです。

しかし、この箇所をその少し前から読めば、本当に言いたいことは空中の件ではないことがわかります。読んで見ましょう。

テサロニキ前書 4:13-18

兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。

普通に読めば、キリストの再臨においては、死者であっても生者とおなじように救われるのだよ、という説明なのであって、空中云々は比喩を用いた補足説明に過ぎない、と理解することができるでしょう。

文章の本流を度外視し、細かな、そして都合の良い所を一部だけ切り出し、ことさら強調して別の話を仕立ててしまっているわけです。聖書に文学的な表現は一切存在しない、という前提に立たなければこのような解釈を行うことはできません。

”おい、パウロ、パウ公、お前書いたよな、「空中で主に会い」って書いただろ、まさか嘘だとか今更言うなよ、教義に書くぞ。いいんだな、お前が言ったことだからな。” というような幼稚な精神性が透けて見えます。

 

過去の記事

では、福音書

信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

と書いてあるので、実際に毒蛇を掴んで見せて、挙句に噛まれて死んでしまう牧師がいるらしい、と書きましたが、携挙も同じレベルの聖書理解だと思いますよね。

 

「は!、変な奴がいるもんだ、」

って笑ってる、自称正統教派の信徒の皆さん、あなたがたも同じようなもんですよ。天国と地獄を信じ込んじゃってるわけでしょ?

ローマカトリック女性司祭協会(ARCWP)

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arcwp.org


 

ローマカトリック女性司祭協会(ARCWP)と.いう組織があることをご存知でしょうか。バチカンが認めていないようですので、厳密にいえばカトリックの団体であるとは言えないのでしょうが、「ローマカトリック女性司祭協会」と名乗っているので、カトリック教会の一部であると感じます。

同サイトの「About Us」から一部を、ブラウザの翻訳機能で日本語に変換して引用してみましょう。

ローマカトリック女性司祭(RCWP)イニシアチブは、ローマカトリック教会内の再生運動です。私たちの目標は、福音の正義と誠実さの問題として、教会内のすべての人の完全な平等を達成することです。女性司祭運動は、教会における包括的聖職奉仕の新しいモデルを提唱しています。私たちは、すべての人々を弟子とする霊への聖なる服従という預言的伝統に立っています。この運動は、2002年にドナウ川で7人の女性の聖職授与から始まりました。今日、世界中で124人以上の女性司祭と10人の司教がいます。私たちの女性司祭は使徒の継承で定められています。最初の女性司教は、ローマカトリックの男性司教が使徒の継承と法王との交わりで任命されました。

バチカンには、私たちはexcommunicatedと述べていますが、私たちはこれを受け入れず、私たちは教会の忠実なメンバーであることを確信しています。私たちは、私たちが呼び出された場所であれ、包括的でキリスト中心の、精神に満ちたコミュニティでの聖餐を祝うためにすべてを歓迎することによって、私たちの最愛の教会に新たな司祭職に奉仕し続けます。ドイツ、オーストリア、フランス、スコットランド、カナダ、米国、南米に女性祭司のコミュニティがあります。ドナウ川の誕生から、RCWPはヨーロッパ(西および東)、カナダ(西および東)、米国(RCWP USAおよびARCWP)の2つの流れに進化しました。いつかラテンアメリカや他の地域でストリームが流れます。

プロテスタントでは女性牧師は当たり前ですし、聖公会では女性主教も増えてきています。しかし、女性を蔑視する風潮は拭い切れないようで、女性牧師を忌み嫌う人はたくさんいます。

宗教とは、元来女性的なものではないかと思います。女性的ヒステリーの極致こそが宗教の実態です。だから、日本神話における最高神は女性なのです。また、観音菩薩は女性的な造形で表現されるわけです。

沖縄や東北における民間宗教の神職(口寄せ)は女性ですし、一般の神社神道であっても女性神職は普通にあります。また、伊勢神宮の祭主は皇族出身の女性と定められています。

仏教においても、尼僧が存在しますし、お釈迦様は悟りは男女に関係なく得られるものだと言っているのです。

 

女性司祭や女性牧師が出現して、そのことが問題になったり不自然に感じられるのであれば、その組織は悪い組織だ、と考えてよいでしょう。改善を試みることは必要かもしれませんが、ある程度努力して改善が成されなければ、早々に脱出する。これが人間として最も賢明な態度です。

なんだ、病気でもないのに病人のフリをさせられていただけなんだな、ということに気づくと思いますよ。

伝道の書

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King Solomon

 

旧約聖書に「伝道の書」があります。

コトバンク」から、解説を引用してみましょう。

旧約聖書諸書の一書。ダビデの子,エルサレムの王である伝道者の言葉とされているが,ソロモンの著作とは認めがたく,ギリシア哲学,特にエピクロス哲学の影響を受けて前 250~150年の間に書かれたと推定される。「日の下で人が行うすべてのわざを見たが,みな空であって風を捕えるようである」 (1・14) との言葉に示されるように,地上的な価値や快楽は究極の安心を与えず,知恵は人間的な諸相のむなしさを教えること,神の思いははかりがたいことを語っている。しかし懐疑と動揺と悲観のうちに永遠を思い神をたたえる信仰がのぞき (3・11) ,義人さえもが義によって滅ぶ人生のむなしさを嘆きつつも,真相を知る知恵が力であり (7・12) ,すべてを知って裁く神の前になしうることは力を尽してなし (9・10) ,神を恐れて本分を守るべきこと (12・13) が逆説的に力強く述べられている。本書は一見他の書にはみられないほど統一性を欠いているため,正典への編入は遅れて2世紀頃であった。 

伝道の書は短い巻ですので、全部読んだよ、とおっしゃる方も大勢おられるのではないかと思います。コトバンクの解説にあるように、厭世的な嘆きから、神に対する期待を逆説的に述べているのだ、という解釈がほとんどだと思います。

ここで例によって、この文書が、仮に仏教の影響を受けて書かれたものだとしたら、と想像しながら読んでみることにしましょう。

冒頭の「空の空、空の空、いっさいは空である。」、言うまでもなく、これは「空性」を総括する言葉であって、「虚しい」と嘆いているわけではないことになります。世の中のことはすべて「空」なのだよ、とまず総論を述べて、たとえばこんなことだよ、と細目の説明がこのあとに続いていく、というわけです。

いちいち細かく分析していくと膨大になってしまいますが、上の例から一つ検証してみましょう。

「日の下で人が行うすべてのわざを見たが,みな空であって風を捕えるようである」 (1・14) との言葉に示されるように,地上的な価値や快楽は究極の安心を与えず,知恵は人間的な諸相のむなしさを教えること,神の思いははかりがたいことを語っている。  

むしろ、安心というところに価値を求めること自体を否定しているのだ、と読みたいところです。神により頼むことも日の下で行う人のわざの一つに過ぎません。

 

少しとんで、11:10 を見てみましょう。

「あなたの心から悩みを去り、あなたのからだから痛みを除け。若い時と盛んな時はともに空だからである。」
煩悩から離脱して菩提へと赴こう、という提案だと理解すれば、とても仏教的です。なにもかも捨て去って、もはや神さえも残っていない、それが「神になる」ということなのだよ、と教えているのだとすれば、また面白い別の世界が見えるようです。

「関係ありません」

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大学生のときの話ですが、クリスチャンでは無い学友を教会へ連れて行った時に、その学友が教会の掲示板を見て、「キリスト教って言っていることと実際が違うよね」と言いました。掲示板には

当教会は、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教とは一切関係ありません。

 と書いてありました。

「関係ありません」の意味は、この教会は、いろいろな問題で世間を騒がせている、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教の教会ではありません、ということなのでしょう。つまり、それらの教会は、組織も所属する人も、すべて悪意だけによって成り立っているのだ、と決めつけているわけで、そのことを堂々と文字にして、一般社会に向けて宣言しているわけです。これは「キリスト教的」でしょうか。

「言っていることと実際が違うよね」と言われても仕方が無いでしょうね。

カトリックでは「信徒使徒職」、プロテスタントでは「万人祭司」と言って、キリスト教徒には、非キリスト教徒に対して宣教を行うところの務めがあるのだ、と理解しているのですが、ものみの塔(エホバの証人)、統一教会モルモン教の教会とそれらの教会員に対しては行わないよ、と予め宣言していることになります。イエス様は罪人を招くために世に来られたのだと理解しているはずなのに、キリスト教徒には「救いたくない人」がいるわけです。

以前の記事「キリスト教の救いと仏教の救い」で、イエス様はイスカリオテのユダを犯罪に追いやった、と書きましたが、イエス様の弟子である現代のキリスト教徒たちも、ユダを救おうとはしないようです。この主(あるじ)にこの弟子あり、ということなのでしょうか。

 

という記事をご覧ください。「キリスト」が救いであるどころか、苦悩の元凶である人がいる、という現実です。同じ神を仰ぐ者として、これを「関係ありません」と切り捨てて、「キリストに倣うもの」と言えるのでしょうか。

エリコへ下る道で強盗に襲われて倒れている者を見捨てて過ぎ去ったものは祭司とレビ人でした。このたとえの通り、現代の祭司たるキリスト教徒も病人を見捨てるばかりか、「無関係」の看板を立てて、決してその血で汚れたくないのだ、と宣言しているのです。これが「キリスト教徒」の現実だというわけです。