キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

オベリスク

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旧約聖書には、オベリスク(聖柱)に関する記述がいくつか見られます。ほとんどは、異教のシンボルであるとして、イスラエル国内での建造を禁止したり、発見したらこれを破壊するようにとの命令であったりします。見てみましょう。

レビ記 26:1

あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

 申命記 16:22

またあなたの神、主が憎まれる柱を立ててはならない。

 士師記 9:6

そこでシケムのすべての人々とベテミロのすべての人々は集まり、行ってシケムにある石の柱のかたわらのテレビンの木のもとで、アビメレクを立てて王とした。

ホセア書 3:4

イスラエルの子らは多くの日の間、王なく、君なく、犠牲なく、柱なく、エポデおよびテラピムもなく過ごす。  

 「石の柱」、「柱」などと表現されていますが、エレミア書でははっきりと「オベリスク」という言葉が出ています。

エレミア書 43:13

彼はエジプトの地にあるヘリオポリスオベリスクをこわし、エジプトの神々の宮を火で焼く』」。

 それで、何を言いたいのかといいますと、これほどまでに明確に禁止されているのに、なぜキリスト教世界にはオベリスクがたくさん存在するのでしょうか。上の写真はバチカンオベリスクですが、ワシントンDCにもオベリスクがあります。

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また、パリのコンコルド広場にもあります。

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石の柱、と言ってしまえばただの記念碑のように感じられるかもしれませんが、これは旧約聖書にもかかれている異教のシンボルです。日本人にわかりやすく言えば、鳥居のようなものです。

バチカンとパリのオベリスクは、わざわざエジプトから運んできたものだといいます。

 

別に石の柱ぐらいいいんじゃないの? ってことなのでしょうか。

でも、「聖書に書いてあるでしょ?」 というのがキリスト教のやり方ですよね。 いつもは本意を探らず字面に反射するのに、オベリスクに関してはなにゆえにこうも寛容なのでしょうか。

批判というよりは不思議なこと、です。

キリスト教と三宝

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過去の記事

などでは、キリスト教の救いと、仏教の救いの類似性について説明しました。仏教では「悟り」を求めることを、キリスト教では「神になる」ことを最終目的として掲げ、その目的に向かって生きることそのものがそれぞれの教えの基本なのであって、両者はよく似た考え方であると理解することができる、と申し上げました。

仏教においては、「仏」「法」「僧」を3つの宝、大切にすべきもの、と考えます。「仏」とは、お釈迦様が見出した悟りのこと、「法」とは、悟りへ至るためのお釈迦様の教え、「僧」とは、それを実践する人々を表現しています。

もうお分かりかもしれませんが、キリスト教においては「三位一体」がこれに相当するわけです。「子(仏)」とは神に成ったイエス様を、「父(法)」とは神になるための法を象徴する神を、「聖霊(僧)」とは「神になる」を実践する人々のうちに生きているエネルギーを表現しているわけです。

こうしてキリスト教を丁寧に紐解けば、仏教によく似ていることがわかってきますが、使徒トマスがインドへ宣教に渡っていた、という伝説があることなどからも、キリスト教が仏教から何らかの影響を受けていたであろうという想像は、全くの妄想とは言えないのかもしれません。

仏教の場合は、「梵天勧請」という仮定によって、この世が存在する理由と、人が悟りを得るところの理由を分離しましたが、キリスト教でははっきりと分離しませんでした。仏教は宗教から独立して、新しい思想として歩んだのに対し、キリスト教は相変わらず宗教として泥臭い暗黒面を保持したまま歩を進めたわけです。

しかしながら、記事「主の祈りに見る宗教性」でご説明申し上げたとおり、実際にはイエス様も神の実在を否定しているのですが、残念なことに、イエス様の周囲には、お釈迦様の弟子に匹敵する明晰な頭脳が存在しなかったと見えて、結果としてイエス様が否定した宗教よりも、もっと低劣な宗教を立ち上げてしまう、という皮肉な結果を生じてしまったわけです。

何のために「法」を守るのか、「罰せられないためにだ」と理解するのが、何の役にも立たないキリスト教的な空論であり、「自分が成長するためにであり、自分が成長するのは、社会がよくなるためだ」と理解することが人間として必要な実践につながる考えだと思います。

ルルドの奇跡とは

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フランス南部の村「ルルド」で起こった奇跡、というものがあります。カトリックでは聖母マリアが一人の少女、ベルナデットに出現し、泉を湧かせて難病を癒し、ベルナデットは死後も遺体が腐敗しなかったことをもって、教会公認の奇跡と定義したとされています。

それは凄いな、やっぱりカトリックが本物のキリスト教なんじゃないか、と思われる場合もあるかもしれませんが、この「カトリック教会公認の奇跡」もやはり完璧ではないようです。

まず、ベルナデットは、自分が幻視した女性を、聖母マリアだとは思っていなかったということ、というより、少なくとも聖母マリアでは無いと思っていた、ということ、そして、難病が完璧に癒された、という痕跡が無いこと、それから、遺体が腐らない、という現象は特に珍しいことではないこと、があります。

 

によれば、

当初は、「何か白いモノ」、「“あれ”は小さなお嬢さんの形をしている」と表現していた。ところが1858年の3月25日、16回目の出現があったこの日に、ベルナデットは思いきって貴婦人に次の質問をしてみたことから事態は変化を見せる。

”お嬢さん、お願いです。あなたがどなたであるか教えていただきたいのです。”

この質問に対し、貴婦人は微笑むばかりで返事はなかったという。しかしベルナデットはあきらめず、4回この質問を繰り返すと、ついに貴婦人は次のように答えた。

”私は無原罪の宿りである。”

ここでいう「無原罪の宿り」とは、キリスト教において、アダムの子孫である人類は原罪を負うとされるが、聖母マリアだけは原罪なしにイエス・キリストを受胎したとする教義のことを指している。(目撃からわずか4年前の1854年に教義となったばかり)

ところがこの発言、文法的には明らかにおかしかった。これには当時のキリスト教関係者も気づいており、上記の言葉を「私はけがれのない乙女である」、または「無原罪のおん宿りのけがれない乙女である」といった形に言い換えている。

とあります。夢見がちで情緒が安定しない年頃の少女が発したうわ言に、教義として定義されたばかりで、いわゆる流行中の「無原罪の宿り」という言葉をかけ合わせて、いわゆる「村おこし」をしようとした、ということなのでしょうか。そういう意味では大成功だったと言えるかもしれません。

また、

フランスの作家アナトール・フランスが実際にルルドを訪れた際、捨てられた松葉杖を見て残した言葉に集約されているので紹介しておきたい。

”こりゃすごい。でも、義足がないところを見ると
足が生えてきた人はいないらしい。”

 とあります。

遺体の腐敗については、

遺体が腐敗しないということ自体は、ある条件が揃うと起こり得る現象だということがわかっている。それは「死蝋化現象」というもの。この現象では外気から遮断され、湿潤で、低温の環境という条件の中、安置された遺体の脂肪分がロウのようになることで腐敗をまぬがれる。

実際ベルナデットの遺体も、地下に安置されていたことから低温で外気から遮断されるという条件は満たしていた。さらに1909年の調査に立ち会った2人の医師が残した記録によると、ベルナデットの遺体が身につけていた修道服は「湿っぽかった」という。

つまり遺体の置かれていた状況は、死蝋化の条件をすべて満たしていた可能性が高い。

ただしいくら死蝋化していても、何度も開封されるなど、条件が破られれば腐敗が始まってしまうことがある。ベルナデットの遺体もその例外ではなかった。何度も棺を開けて調べられたことから、1925年にはついに腐敗が始まってしまったのだ。

そのため現在では遺体の顔と手の上に、生前の姿をもとに作られた精巧なロウのマスクが被せられている。

と説明されています。

 

キリスト教徒は、自然やその現象について、「神が創造した」と理解しているはずです。奇跡とは、その自然に反した事柄、つまり、超自然とか、反自然とか呼ぶべきものであって、神の意思に反するところであると考えねばならないはずだと思います。

そもそも、泉の水であらゆる病が癒やされるというのであれば、世界中から病院がなくなっているはずだと思いますよ。

「なんだ、やっぱりカトリックは迷信だな」と嘲笑っているあなた、キリストの復活、世の終わり、イエス様の奇跡、全部同じような迷信だと思いますよ。

主の祈りに見る宗教性

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Lord's Prayer Parchmentwww.holylandgifts.net

 

マタイ、ルカ福音書には、イエス様ご自身が弟子たちに「主の祈り」を教えたという記述があります。この祈りが示唆するところの真意は、以下の記事

で説明したとおりです。もう一度書いて置きましょう。

(天にいますわれらの父よ、)
世の中に真理というものがもしあるなら、見て聞きましょう。

(御名があがめられますように。)
その真理から目をそむけない自分自身であるように、

(御国がきますように。)
その真理へ立ち向かって進んでいく自分自身であるように、

(みこころが天に行われるとおり、)
上辺だけでなく、

(地にも行われますように。)
実践できる自分自身であるように、

(わたしたちの日ごとの食物を、)
虚飾ではなく

(きょうもお与えください。)
誰に何が必要であるかを知る努力をする自分自身であるように、

(わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、)
失敗を笑わず、

(わたしたちの負債をもおゆるしください。)
失敗を認めて反省する自分自身であるように、

(わたしたちを試みに会わせないで、)
しかし失敗を恐れず

(悪しき者からお救いください。)
立ち向かえる自分自身でもあるように努めます。

ユダヤ教には「シェマー・イスラエル」ではじまる、律法全体を象徴する、代表的な祈りがあります。

福音書で、イエス様は、この祈りについて次のように説明しています。

マルコ福音書 12:28-31

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

にも関わらず、イエス様が、シェマー・イスラエルでもなく、ラビによる伝統的な祈りでもなく、「主の祈り」を教えた、ということはどういうことなのでしょうか。

それは、神は実際には存在しない、ということを言い表しているわけです。「主」と表現しなくてはならないところを「父」と言い表している理由も同じです。

天(理想郷)に君臨するところのものは神ではなく、もっと具体的な人間の精神性そのものなのだよ、と教えているのです。

福音書でイエス様がこう祈りなさいといったから祈る。でも、「祈る」ではなく「読唱」しているだけですよね。それでは何一つなしえないでしょう。

 

 

バチカン銀行

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バチカン銀行の資金洗浄に捜査のメス。20世紀から続く資金洗浄の歴史 – わくたまの「ジャンクな人とモノ」

 

バチカン銀行の資金洗浄に捜査のメス。20世紀から続く資金洗浄の歴史」というブログ記事がありました。引用してみましょう。

 

取引のあるイタリアや米国の銀行の担当者の中にはマフィアの世界とつながりのある者もおり、他国の捜査機関が原則として指一本触れることのできないバチカン銀行は、麻薬資金などの巨大な洗浄装置として悪用されるようになったとされる。法王庁は一貫して否定しているが、一説によれば、バチカン銀行は資金洗浄額の10%以上を手数料として取り、得た利益を東欧や中南米の反共組織に送金していたともいわれている。

こんなことを書いていると「陰謀史観に支配されたオカシイヤツの与太話」とか思われてしまいそうですが、少なくともイタリア司法当局はそのようには考えていません。この問題はイタリア司法当局が実際に動き、捜査関係者が殺され、2006年にはマフィア幹部が実際に起訴され、そして今回の産経の記事で紹介されている事件につながっている、実話です。

 いかがでしょうか。想像だにし得ない奇想天外な事実、とまでは言えないでしょう。ありそうなことです。記事を読み進めますと、「ロスチャイルド家」がバチカン銀行設立に関与したのだ、と説明されていますが、ロスチャイルド家とはユダヤ系財閥です。お互い、金になることであれば、宗教も主義主張も関係ない、ということになるのでしょうね。

もう少し引用してみましょう。

アンブロシアーノ銀行はイタリアンマフィアと結託しマネーロンダリングを行うなど、闇の権力と密接な関わりがありました。特に問題になったのは1980年代。当時のバチカン銀行の総裁はアメリカのシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教で、まさにイタリアンマフィアとシカゴギャングのコラボレーション。

ポール・マルチンクス大司教は、こうした問題を改革しようとしたヨハネ・パウロ1世の暗殺にも関わったとも言われています。その後、アンブロシアーノ銀行は大量の使途不明金を抱えたまま、破綻。大スキャンダルとして社会的問題になったことで、イタリア司法当局も動き、大々的な捜査が行われました。

ヨハネ・パウロ1世は、1978に教皇就任後、わずか33日後に急逝した人物です。暗殺されたという証拠は無いようですが、もし事実であるならば、カトリック教会という団体は、人を殺してでも金を優先させる低劣な組織なのだということになるでしょうね。

もっとも、金にまみれているのはカトリック教会ばかりではありません。アメリカ最大のメガチャーチとして知られるレイクウッド教会では、献金60万ドル、およそ6150万円が盗まれたのだとか。この額は2日間の礼拝で献金されたものだということです。

永遠の刑罰と永遠の生命

 

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福音書には、「永遠の刑罰」とか「永遠の生命」というような言葉が出てきます。これは死後どうなるか、といっているように聞こえます。見てみましょう。

マタイ福音書 25:40-46

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。

「永遠の刑罰」、恐ろしい表現ですね。死後、永遠の刑罰を受けてしまう恐れがあることこそが、キリスト教の存在理由だ、という人がいるほどです。

しかし、同じマタイ福音書の22:32では、

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である

と言っていますね。死後の世界、などといった子供だましの戯言には振り回されるな、という注意です。同じ文書のほんのすこし後で、同じ人物が全く逆のことを言うはずがありません。たとえ宗教テキストと言えど、常識的な読み方をするべきだと思います。

それでは、この箇所の言っている永遠の刑罰とは何か、永遠の生命とは何か、どう考えればよいでしょうか。死後のことを言っているのではないのでしょうか。

 

矛盾したことを言うようで恐縮なのですが、これは死後のお話です。一体何が言いたいのだ、と突っ込まれそうですが、死後のことには違いありません。

しかし、死後も意識が生き続けて、というようなことではありません。たとえば、ヒトラーを考えて見ましょう。端的に言って、彼は犯罪者でした。たくさんの人を惨殺し、不和による悪政を敢行したのです。

そして彼は死にましたが、だれか、彼の行動を是認する人がいるでしょうか。合理的な意味において、かれは全く認められてはいないでしょう。悪しき人物としての評価が全てだと思います。つまり、これが「永遠の刑罰」なのです。

 

死は、その人にとっての最後です。死後も意識だけあり続ける、というようなことはありません。しかし、社会における、その人の記憶はいつまでたっても消えませんよ、ということ、これが永遠の刑罰であり、永遠の生命なのです。

からしっかりと生きていきましょう、というわけです。名指しで讃えられることばかりではありません。生きている自分の生命をどう使うのか、と考えながら生きていれば必ず良い実が生じるよ、と、福音書は教えているのだと思います。

復活とは

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復活について、イエス様はどのように教えているでしょうか。福音書を読んで見ましょう。

マタイ福音書 22:23-33

復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。最後に、その女も死にました。すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。

 

なんとも回りくどい質問のしかただと思います。「復活とは何のことですか、教えて下さい」と言えばいいだけのことを、「さて、わたしのところに」などといいながら、ひとくさり物語ってしまっています。

でも、こういう回りくどい人、よくいますよね。ネットにもいます。自分を飾り立てているわけです。しかし、安物の本体は、いくらアクセサリーで飾り立てても安物のままです。

 

エス様はなんと答えたのでしょうか。「死者は復活しないよ」と答えているのです。「死は物事の終わりである」。何にでも始まりがあるように終わりもある。当たり前のことですね。

しかし、同時に「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」とも説明しています。

 

エス様自身がそう説明しているように、福音書でイエス様は、喩えを使って色々な事柄を説明しています。そして、さあ、今から喩え話で説明しますよ、と言っている箇所だけが喩え話ではないのです。この箇所の「復活したひとは天使のようなものだ」という説明もまた喩え話だということがわかります。そして、死者は生き返らない。なぜなら、神は死には興味がない。生きて苦しむことにこそ価値がある。これがイエス様の教える真実です。

アブラハム、イサク、ヤコブのような偉人の生き様を心に留めて、その教えを活き活きと応用すること、これが「復活」なのだよ、と言っているわけです。

こう読むことにより福音書の価値が活き活きと引き出される、即ち復活する、ということなのです。

そうして、ラザロの復活やイエス様の復活について読めば、教会では教えられない真実の深みへと、思いを致すことができるのではないでしょうか。