キリスト教の問題点について考える

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伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

荒れ野での誘惑

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福音書には、イエス様が宣教に先立って、荒れ野で断食を行い、悪魔からの誘惑を経験したことが書かれています。読んで見ましょう。

マタイによる福音 4:1-11

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

この「悪魔」というのは、実在の権力者であって、イエス様を懐柔するために誘惑したのだ、という解釈を聞いたことがありますが、山上の説教前、つまり、まだ認知度が不十分な状態では、だれも懐柔しようとは思わないでしょうね。

キリスト教徒は「悪魔」が大好きです。ちょっと嫌なことを言われでもしたら、すぐに「あの人は悪魔よ」などと平気で言います。

ですが、悪魔が実在するかどうかということは、実はどうでもいいことなんです。悪魔というものが実在する、という聖書の読み方、即ち低次元的な読み方、それから、何かを象徴的に例えながら表現しているのだ、と理解しながら読む、高等批判的読み方があります。イエス様は、実在の悪魔であれ、自分自身に潜む負の意識にであれ、どちらであったにせよ、楽なメソッドへの誘惑と戦った、という事実を見れば良いのです。

悪魔とは、ヨブ記に見る通り、神の手下として表現されているものなのですから、神を誘惑するはずはありません。ですから、福音書において、イエス様は神では無い、と表現されていることになります。しかし、荒れ野で断食をし、誘惑と戦い、「神に成った」と説明されているのです。イエス様が神に成ったとき、悪魔が去り、みつかいたちがみもとに来て仕えた、とあります。

お釈迦様は、死ぬほどの苦行を行った後、菩提樹の下で悟りを得られましたが、イエス様も修行と誘惑を経験しながら、仏教で言う悟り、涅槃へと入られたのだと説明しているわけです。大切なことなのに、随分あっさりとした説明で済ませていますよね。

これが、キリスト教で言う「神成」です。以前の記事でも説明しています。

 

 

 

福音書は、イエス様は、神になることができた初めての人間なのだ、と説明しているのです。この理屈を理解することができれば、今まで福音書キリスト教に関してモヤモヤしていた色々な事柄が、一気に解決するように感じると思います。

その理解を踏まえた上で、三位一体、を考えるのであれば、神秘などといった子供だましの説明ではなくて、実に科学的である、とさえ評価することができると思います。

教会は、イエス様が悟りを得て神と等しい者となった、神成を達成した、ということを、「神の子」と表現したわけです。

ですので、「神成」の教義を捨て去っていない、正教会だけがキリスト教として唯一正しいのだ、と言えるわけです。

また、正教会の聖人とは、イエス様に倣って「神に成る」をなし得た偉人達、仏教で言うならば、お釈迦様に倣って阿羅漢となることができた人たち、ということになるでしょう。

それが正しいというのであれば、なぜそのことをはっきりと教えないのか、と思いますよね。教会の言い分は「誤解されたなら危険な結果招いてしまうから」というようなことなのですが、そうではなくて、もしそう言ってしまうと、教会の存在意義が変わってしまうからでしょう。パリサイ人とは、変化を恐れる人たちのことです(笑)。

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

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マタイ福音 27:46 に

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 という記述があります。なんだ、偉そうに言って、結局土壇場では弱音を吐くんじゃないか、と言われるようなこともあるようですが、キリスト教徒であれば、教会で教わってご存知の通り、これは詩篇第22の冒頭です。なぜ詩篇だと言い切れるのかといいますと、イエス様当時のイスラエルでは、日常語としてヘブライ語ではなくてアラム語が使われていましたが、アラム語訳の聖書があったわけではなくて、聖書はすべてヘブライ語のままでした。ですので、イエス様が「エリ、エリ…」とヘブライ語を発し始めたことは、聖書を朗読し始めた、ということになるからです。しかし、周囲のヘブライ人たちは、それがヘブライ語だということも、詩篇の一つだということも理解できなかったのです。

正確には、これは正しいヘブライ語ではないようです。かといってアラム語とも言えないとのことで、おそらく福音書記者が、不正確な情報からヘブライ語のつもりでこの箇所を記述したのでしょう。マルコ福音書にも同様の記録があるのですが、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」となっていて、こちらも正しいヘブライ語ともアラム語とも言えないようです。少なくとも言えることは、福音書は、イエス様や周囲の人たちのアラム語による日常の様子をギリシャ語に翻訳した上記述されているのですから、この場合も、アラム語で「わが神、わが神‥」と訴え始めた、というのであれば「エリ・エリ‥」と記述する必要はなかったはずだと言えるわけであって、著者は、この場面でイエス様が、ヘブライ語詩篇第22を唱え始めたことを記録している、と推測できるわけです。

引用元の詩篇22を読んでみましょう。

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。

 

(中略)

 

大いなる会衆の中で、わたしのさんびはあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。
国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
主がなされたその救を後に生れる民にのべ伝えるでしょう。

冒頭だけ取り出すと、神を疑って嘆いているかのように聞こえますが、全文を読めば、神の素晴らしさを讃え、感謝の意を表すところの詩であることがわかります。文語訳には「あけぼのの鹿の調にあはせて伶長にうたはしめたるダビデの歌」との説明文が添えられています。「伶長」は「うたのかみ」と読みますが、現代風にいえば「宮廷楽部長」となるでしょう。

エス様は十字架での死に際して、神を讃える詩篇を唱えられた。ということが記されているわけですが、福音書のこの箇所が言いたいことは、そういうことではありません。次の箇所を読みましょう。

マタイによる福音 27:47-49

すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。

福音書には「タリタ、クム」(マルコ5:41)、「エッファタ」(マルコ7:34)など、アラム語だと思われるイエス様の発言が記録されているのですが、この、「エリ、エリ…」がヘブライ語であると考えられる最も大きな理由は、この箇所にあるように、民衆が、この、イエス様の発言の意味を理解することができなかったと記録されていることです。

この「あれはエリヤを呼んでいるのだ」と言った「そこに立っていたある人々」には、山上の説教を現場で聞いた人、また、癒しの業を受けて目が開いた盲人も含まれている、と考えるべきでしょう。彼らは、イスラエル人であって、おそらくはパリサイ派に属するユダヤ教徒だったでしょうが、ヘブライ語詩篇を理解することはできなかったのです。つまり、今ちまたで流行中のカリスマにくっついて歩く、ミーハー的行為には同調するけれども、その本質には興味がなかったのだ、ということが暴露されているわけです。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。

とはかれらのこと。と、ここまで言えば勘の良い方であればお分かりでしょう。これはつまり、「キリスト教徒」のことを言っているわけです。

天の国を得たければ「持ち物」を捨てなさい、と書いてありますが、誰か、実際に捨てた人がいますか?いないでしょう。おそらく一人もいないと思いますよ。それでも「キリスト教徒」だと自覚しているんですよね。しかし、それでは、実質的には傍観者に過ぎないですよね、ということです。

「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ってイエス様を馬鹿にして見ているのは、実は「キリスト教徒」なんですよ。

天の国と王家の婚宴

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福音書を読んで見ましょう。

マタイによる福音 22:1-14

エスはまた、譬で彼らに語って言われた、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

 イエス様は、人が神の国を目指すことは、決してなし得ないような無駄な望みではなくて、誰にでもできることだ、と言われました。即ち、全ての持ち物を捨てればいいだけだ、と。

しかし人々は、自分の畑や商売、といった「自分の持ち物」に執着して天の国に目を向けようとはしないわけです。そして問題は「キリスト教徒」である人々でしょう。招かれているのにわきまえを有しない無礼者、これはキリスト教徒のことです。

上に引用した福音書の少し後に、このような記述があります。

マタイによる福音 23:4

重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。

マタイによる福音 23:13

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。

この「パリサイ人」あるいは「律法学者」というのは、全てキリスト教徒を表しているのです。

 

大学時代の経験をお話しましょう。当時、まだ僕はキリスト教徒でした。都心で買い物をした帰り道、日曜日で朝の礼拝に参加できていなかったことを思い出したのですが、ちょうど有名な教会の近くにいることに気づき、少し足を伸ばして夕礼拝に参加することにしました。

石造らしい重厚な外見で、屋内もシンプルな、プロテスタントらしい美しい教会でした。受付で署名を済ませ、後方のベンチの側廊側に座って、ぼんやりと電灯に施された珍しい装飾を観察していたときのことです。口から生まれて来たのかと思わせるようなかしましいご婦人が現れてこちらへ近寄ってきたのです。鶏のような顔の厚化粧で、香水に浸かってきたかのような強烈な臭気を漂わせています。

なにを言い出すかと思えば、礼拝式の聖書朗読で新約聖書の書簡の朗読をしてくれ、という依頼でした。依頼というよりは命令に近かったように思います。しかし、聖書朗読というのは礼拝式の中心をなす重要な要素なのですから、よそ者の立ち寄り者が、あ、そうですか、はいはい、と安請け合いするようなことでは無いと思いましたので、はっきりとお断りしました。

ちょうどそのとき、二人の若い女性が、入り口から入ってきたのです。お二人とも日本人のようには見えたのですが、受付の男性とは英語で会話しているようでした。

次の獲物を発見した鶏のご婦人は、「ちょっとアナタ」と奇声を発しながら二人をホールドして、例の聖書朗読命令を発したのです。しかし二人はそれを理解できません。受付の男性が、そのことをご婦人に説明しますと、ご婦人は、

「まあ、日本人のような顔なのに日本語がダメなの、かわいそうにねえ、オホホホホ」

と言って身廊から講壇へ向かって立ち去ったのです。

今、あの女性は何と言ったのか、聞かれた男性、彼は高校生ぐらいに見えましたが、悪気ではなく、なるべく正確に言わなくてはならない、と思ったのでしょう。

「あなた方は日本人のように見えるのに、実際には日本語を理解できないし、カタコトの日本語さえしゃべれないので、かわいそうに思う、と言ったのです」と説明しました。

二人はしばらく顔を見合わせて呆れていたようですが、間もなく出ていってしまいました。

 

あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。 

実は、 キリスト教徒こそが反キリストであり反聖書的である、という実例です(笑)。

 

なぜ断食を行うのか

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記事「断食」でも引用しましたが、福音書の次の箇所

マタイ福音書 6:16-18

断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。

において、イエス様は断食を行うなと言っているわけではありません。人に評価してもらうためにするものでは無い、と言っているのです。それだけではなく、神に評価されるために行うものでもありません。人知れず断食をしたとしても、それが、ただ空腹に耐えるために行って、耐えた分だけ神からの評価が高まる、と思って行うのであれば、他人には知られなかったとしても、神に見せるために陰気で見苦しい顔つきをしているだけのことになってしまいます。

え、それもダメだって言うなら、一体断食って何のためにするんだよ、と思われたでしょうか。それでは、なるべくわかりやすく断食の意味をご説明させていただこうと思います。

キリスト教徒が断食を行う必要がある、というところの理由は、苦しむために、ではありません。むしろ逆なのです。人間って、そんなにたくさん食べなくても大丈夫なんだね、ということに気づくことが目的です。それに気づけば、贅沢な食材も、衣服も、住宅も、学歴も、財産、資産も、別に必要ないよね、ということにも気づきます。これが断食を行う必要の意味です。おわかりいただけたでしょうか。

エス様は資産家の青年に

「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

と要求しましたが、今すぐすべて捨てなさい、と言ったわけではなかったのです。断食を通して得られることがらを理解して、少しずつでいいから何か始末して飢餓に苦しんでいる子どもたちを扶けられるのではないか、と考えなさい、と言っているのです。

福音が世に伝えられて、既に2000年が経った今、飢餓人口は8億1500万人だと言います。世界の人口の11%にあたります。つまり、キリスト教のやり方では、真実の神の国を実現出来なかった、キリスト教は失敗だった、ということです。だからといって、他に成功した宗教、とか、将来成功する見込みのある宗教がある、というわけではないのですが(笑)。

ネットを見ていると、有名人との2ショット写真をアップして俗人ぶりを露呈している聖職者や、他人や他教派の悪口ばかり言っている人、人の聖書の解釈の間違いを指摘しているわりにはご本人の解釈もどうかと思われる人、貴石や珍木で作られれた信心用具の自慢をしている人、ヨーロッパへ巡礼旅行した、と自慢している人、聖書のコピペを貼り付けて皮肉の代用にする人、病気だ病気だと大発表して同情発言してほしい人、キリスト教徒の実体は、だいたいこういう傾向へと落ち着きつつあるようです。

キリスト教なんて早めに捨てたほうが賢明だと思いますよ。人生の無駄もいいとこです。

迷信

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迷信的人:把佛教菩萨当作神明去膜拜_怀恩菩提心

 

仏教には「信仰の対象」が存在しませんので、厳密に言えば、仏教は宗教ではなくて思想の体系だと言えるかもしれません。大衆化の過程において自然発生した迷信的な部分は仕方ないとしても、根幹的な部分には迷信の要素は存在しないはずです。

しかし、実際にはそうでもないのです。例えば、有名な「般若心経」を見てみましょう。「観自在菩薩が悟りを求めて熱心に修業を行っていたとき」で始まる「空性」の見解を短くまとめた文章ですが、『実体は空に異ならず、空は実体に異ならず』このあたりはまあ良いとして、『実体は無く、肉体、感覚、思想、行い、意識といった、人間の存在そのものも無いのだ』のあたりからだんだんおかしくなってきます。実体は空である、と説明するのであればまだしも、実体は無いのだ、と言うから意味がわからなくなってしまうのではないでしょうか。空とは、あるべきもの、あるように見えるものが無い、ということですが、無と言ってしまうと、そもそも最初から何も存在しないことになってしまいます。

それから、何もない、何もない、無明も、老死も、お釈迦様が説明した色々なことも、実際には無いのだ、と言い切りながら、最後には、結局この世で至上のものは、呪文なんだよ、この呪文を唱えなさい、

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 と説明しています。「空」だの「無」だのと論理不十分な説明をしながら、最後には呪文を唱えるのが一番良いのだよ、と言っているわけです。

般若心経の他にも、念仏だけしていれば、あるいは南無妙法蓮華経と唱えれば、それだけで救われる、というような極端なものがあったり、護摩焚きをしたりするのを見ると、どうも本体そのものが迷信に汚染されてしまっているのではないかと思えます。

もちろん異論もあるのでしょうが、初期仏教が純粋なお釈迦様の思想だけを追求することに対し、北伝仏教(大乗仏教)には、このように、教えの本体そのものに迷信的要素が入り込みやすいように見受けられます。

 

キリスト教ではどうでしょうか。記事「キリスト教の理念は団体主義であること」で申し上げたとおり、本来、キリスト教徒は「既に真の光を見」たもの、つまり、神そのものである「真理」を体感して、仏教でいう涅槃に至っている状態なのだ、という理解であるはずなのです。なにもかも知り尽くした状態だというわけです。

しかし、実際には、機密(正教会)、秘跡カトリック)、聖礼典(プロテスタント)と呼ばれる、人間が知り及ぶことのできない神の秘密の儀礼、が存在し、それを行うことが必要である、と考えていて、既に真の光を見て、なにもかも知り尽くしている、という理解とは矛盾することになります。

結局、宗教に頼りながら生きることは、迷信に振り回されながら、ただ死を目指しているだけだということになるのでしょうね。

最後の晩餐

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Right Reason: The Bible

 

最後の晩餐、というと、ダビンチが描いたような、横長の食卓で、椅子に腰掛けて、という図を想像してしまいがちでしょうが、実際には、夕食は上の絵のように、背の低い円卓を囲んで、寝そべって食べていたのだそうです。肉でも魚でも手づかみで、汚れた手は衣服で拭っていたのだとか。随分だらしない感じがしてしまうのですが、当時はそれでよかったのでしょうね。

しかし、そう思って福音書を読むと、

ヨハネによる福音 13:23-26

弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。

 寝そべった状態で「イエスの胸によりかかった」ということは、抱擁し合った、ということになりますが、福音書には随分不謹慎なことが書かれているのですね(笑)。

 

テーブルマナーと言えば、テレビでフランス料理のコースを食べるような場面で、ナイフとフォークで切り分けた料理を、そのまま左手でフォークの料理を口へ入れていますよね。これは英国式の作法で間違いではないのですが、英国人がフランスへの対抗意識でマニュアル化した、ちょっと歪んだマナーだと思っています。ご飯をお皿で出された場合も同じようにするようにと教えるようですが、食事はサーカスじゃないんですから、落とさないかとビクビクしながら左手でしなくても、右手に持ち替えて食べればいいんです。英国以外の一般的なマナーではそうです。

アメリカのテーブルマナーは英国式がほとんどです。日本は「洋式と言えばアメリカ」なので、英国式のマナーがテーブルマナーだということになったのでしょうが、フォークの背中に貼り付いたご飯を恐る恐る口へ入れてる図なんてのはみっともないもいいところででしょう(笑)。

パリやローマでやったら、そんな変な食べ方をして美味いのか、と笑われると思いますよ。

余計なことかもしれませんが(笑)。

偶像崇拝とは

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52. Why did the Israelites worship a golden calf? (Exodus 32)500questions.wordpress.com

 

出エジプト記 20:4 に、

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 とあるので、これを守る。これが偶像崇拝の忌避であって、キリスト教徒はこれを戒めとして守るわけですが、プロテスタント教会は、カトリック正教会が行う聖像崇敬をも偶像崇拝に当たるとして批判しています。

偶像崇拝 - Wikipedia によれば、

1932年(昭和7年)5月5日に、上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝拒否という偶像崇拝行為への拒否を公然化したため、「カトリック、否、全キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである」と非難された上智大生靖国神社参拝拒否事件が起き、信者たちの信仰活動は動揺した。そのため信仰よりも教会防衛を優先した当時のカトリック教会指導層は「祖国に対する信者のつとめ」を出し、神社参拝を容認した。これらの偶像崇拝と宗教弾圧への動揺は今日では自己批判されている。

とあり、カトリックには国家の方針に逆らってでも偶像崇拝を拒否し、信仰を表す風潮が満ちていたことを知ることが出来ます。

一方、富田満 - Wikipedia によれば、

富田は自ら率先して伊勢神宮に参拝し、天照大神日本基督教団創立を報告し、発展を希願した。ホーリネス派の牧師が治安維持法違反で検挙されるホーリネス弾圧事件が起こると、教団を守るために該当牧師に辞職を勧告した。「天皇陛下の臣民」として、日本基督教団の総力を挙げて、大日本帝国に軍用機「日本基督教団号」を献納した。

と、日本基督教団の初代総統であった富田満が国家の方針に逆らわないよう、偶像神である伊勢の神宮に参拝し、国家に軍用機を献納した、とあります。

 

僕は、家庭の都合で、台湾で生まれました。幼稚園(台灣では幼児園といいます)は、台湾の長老教会付属の幼稚園に通いました。日曜日には、同じ教会の日曜学校へ参加していましたが、毎回教室の終わりには、ご褒美としてカードが配られます。イエス様やマリヤ様、使徒など、旧、新約聖書に現れる人物やそのエピソードを題材にした絵画が描かれているカードです。日本でも同じことをしているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これ、プロテスタント的にいえば「偶像」ですよね。 偶像は、人を神から引き離す、危険なもの、と言いながら、子供には平気で与えるわけですね。どういう理屈なんでしょうかね。

また、講壇上に十字架が無い教会堂もありますが、十字架が掲げられている場合もありますよね。無い場合でも、教会堂外部のどこかには 十字架があるでしょう。ステンドグラスがあれば、何らかの造形が表現されているでしょう。例えばキリストを象徴的に表す魚の絵などです。

「真の人間」でもあるイエス・キリストを「神」であると認識する時点で、それは偶像崇拝では無いとは言い切れないわけです。人間を神だと定義することは、偶像を崇拝するのだと宣言することです。それを、偶像崇拝は良くないことだと言うことは、自ら矛盾を産み出しながら、好んでそれに縛られて不自由になった手で他者を指して嘲笑っているようなものです。

偶像崇拝、などと厳しいことを言っていますが、結局は敵対他派を貶めるための屁理屈でしかないわけでしょう。言い出した自分達でさえ厳密に守ることができていません(笑)。