キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

最後の晩餐

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Right Reason: The Bible

 

最後の晩餐、というと、ダビンチが描いたような、横長の食卓で、椅子に腰掛けて、という図を想像してしまいがちでしょうが、実際には、夕食は上の絵のように、背の低い円卓を囲んで、寝そべって食べていたのだそうです。肉でも魚でも手づかみで、汚れた手は衣服で拭っていたのだとか。随分だらしない感じがしてしまうのですが、当時はそれでよかったのでしょうね。

しかし、そう思って福音書を読むと、

ヨハネによる福音 13:23-26

弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。

 寝そべった状態で「イエスの胸によりかかった」ということは、抱擁し合った、ということになりますが、福音書には随分不謹慎なことが書かれているのですね(笑)。

 

テーブルマナーと言えば、テレビでフランス料理のコースを食べるような場面で、ナイフとフォークで切り分けた料理を、そのまま左手でフォークの料理を口へ入れていますよね。これは英国式の作法で間違いではないのですが、英国人がフランスへの対抗意識でマニュアル化した、ちょっと歪んだマナーだと思っています。ご飯をお皿で出された場合も同じようにするようにと教えるようですが、食事はサーカスじゃないんですから、落とさないかとビクビクしながら左手でしなくても、右手に持ち替えて食べればいいんです。英国以外の一般的なマナーではそうです。

アメリカのテーブルマナーは英国式がほとんどです。日本は「洋式と言えばアメリカ」なので、英国式のマナーがテーブルマナーだということになったのでしょうが、フォークの背中に貼り付いたご飯を恐る恐る口へ入れてる図なんてのはみっともないもいいところででしょう(笑)。

パリやローマでやったら、そんな変な食べ方をして美味いのか、と笑われると思いますよ。

余計なことかもしれませんが(笑)。

偶像崇拝とは

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52. Why did the Israelites worship a golden calf? (Exodus 32)500questions.wordpress.com

 

出エジプト記 20:4 に、

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

 とあるので、これを守る。これが偶像崇拝の忌避であって、キリスト教徒はこれを戒めとして守るわけですが、プロテスタント教会は、カトリック正教会が行う聖像崇敬をも偶像崇拝に当たるとして批判しています。

偶像崇拝 - Wikipedia によれば、

1932年(昭和7年)5月5日に、上智大学の学生の一部が靖国神社の参拝拒否という偶像崇拝行為への拒否を公然化したため、「カトリック、否、全キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師などはそれぞれの母国から派遣されたスパイである」と非難された上智大生靖国神社参拝拒否事件が起き、信者たちの信仰活動は動揺した。そのため信仰よりも教会防衛を優先した当時のカトリック教会指導層は「祖国に対する信者のつとめ」を出し、神社参拝を容認した。これらの偶像崇拝と宗教弾圧への動揺は今日では自己批判されている。

とあり、カトリックには国家の方針に逆らってでも偶像崇拝を拒否し、信仰を表す風潮が満ちていたことを知ることが出来ます。

一方、富田満 - Wikipedia によれば、

富田は自ら率先して伊勢神宮に参拝し、天照大神日本基督教団創立を報告し、発展を希願した。ホーリネス派の牧師が治安維持法違反で検挙されるホーリネス弾圧事件が起こると、教団を守るために該当牧師に辞職を勧告した。「天皇陛下の臣民」として、日本基督教団の総力を挙げて、大日本帝国に軍用機「日本基督教団号」を献納した。

と、日本基督教団の初代総統であった富田満が国家の方針に逆らわないよう、偶像神である伊勢の神宮に参拝し、国家に軍用機を献納した、とあります。

 

僕は、家庭の都合で、台湾で生まれました。幼稚園(台灣では幼児園といいます)は、台湾の長老教会付属の幼稚園に通いました。日曜日には、同じ教会の日曜学校へ参加していましたが、毎回教室の終わりには、ご褒美としてカードが配られます。イエス様やマリヤ様、使徒など、旧、新約聖書に現れる人物やそのエピソードを題材にした絵画が描かれているカードです。日本でも同じことをしているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

これ、プロテスタント的にいえば「偶像」ですよね。 偶像は、人を神から引き離す、危険なもの、と言いながら、子供には平気で与えるわけですね。どういう理屈なんでしょうかね。

また、講壇上に十字架が無い教会堂もありますが、十字架が掲げられている場合もありますよね。無い場合でも、教会堂外部のどこかには 十字架があるでしょう。ステンドグラスがあれば、何らかの造形が表現されているでしょう。例えばキリストを象徴的に表す魚の絵などです。

「真の人間」でもあるイエス・キリストを「神」であると認識する時点で、それは偶像崇拝では無いとは言い切れないわけです。人間を神だと定義することは、偶像を崇拝するのだと宣言することです。それを、偶像崇拝は良くないことだと言うことは、自ら矛盾を産み出しながら、好んでそれに縛られて不自由になった手で他者を指して嘲笑っているようなものです。

偶像崇拝、などと厳しいことを言っていますが、結局は敵対他派を貶めるための屁理屈でしかないわけでしょう。言い出した自分達でさえ厳密に守ることができていません(笑)。

キリスト教の理念は団体主義であること

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Eastern Orthodox Christian - 2/3 - Religious Holidays

 

福音書を見てみましょう。少し長くなりますが引用してみます。

ルカによる福音 14:16-27

そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。

僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

持ち物、つまり我欲、仏教で言う煩悩を捨ててしまえない者は、いくら理屈を学んで理解したとしても、神の国に至ることはできない。イエス様は同じことを何度も何度も、喩えを変えて、別の表現で繰り返し教えています。

仏教は、極端に言えば仮説に向かっての試行錯誤、ということになるでしょうから、色々な方法、即ち宗派が存在することは、いわば当たり前のことなのでしょうが、キリスト教には結論があって、まして一神教なのですから、教派に分裂している現状は不自然なこと、と言うことができるでしょう。

正教徒は、プロテスタントの信者は一人乗りのボートで、カトリックの信者は豪華客船にのって神の国へ向かっている、と喩えます。そして正教徒自身は、既に神の国へ到達している、というわけです。正教会聖餐式での祈祷文には次のようなものがあります。

既に真の光を見,天の聖神を受け,正しき教を得て,分れざる聖三者を拝む,彼我等を救い給えばなり

生きながらにして「真の光」を見、仏教でいう「正見」を極めた、つまり神の姿を見、「天の聖神(聖霊)」を受けた、即ち神と同等になること、つまり神成、仏教でいう「成仏」を達成することができたのだと言っているわけです。これが正しいキリスト教の理解です。

そして、ルカ福音書の喩えを見る限り、個人的にではなく、社会として実践するべきなのだと教えている、と考えるべきでしょう。そして、イエス様自身が、理想的な社会は共産的な社会である、と教えています。

結局、「正しいキリスト教」はどの教会なのか、と言うと、団体的で共産的な教会、つまり「正教会」である、ということになるでしょう。カトリックには「教皇」という君主が君臨していますので共産的とは言えません。団体的とは、教会組織に社会的な役割、つまり「権威」が与えられている、という意味です。

記事「神になる」「神になる その2」では「人が神になる」の思想が、実際のキリスト教の目的だということをご紹介しましたが、これも、具体的な教説として保存しているのは、実際には正教会だけでしょう。

西洋風で、ちょっと見栄えのする新しい属性、つまり、アクセサリーとしてキリスト教を選んだのであれば、イエス様が捨ててしまうように教えている「持ち物」を一つ増やしただけの話になってしまうでしょう。

罪だの救いだの、洗礼や聖餐や律法や礼拝などといった迷信的な事柄は、どれも「人が神になる」ための方法の一つ、仏教でいう「方便」にすぎないのです。

本当のキリスト教徒になりたいのであれば、正教が一般的であって、地域も学校も職場にも正教の影響があり、寝ても覚めても正教的習慣に従う、そのような国に生まれ変わらない限り無理でしょうね。

共産主義とキリスト教

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www.buzzfeed.com

 

キリスト教の批判を続けていますと、「共産主義者」とか「唯物論者」と言われることがあります。僕は、共産主義者でも唯物論者でもないのですが、それらが悪いことは思いませんので、残念ながら、そう言われたところで、全くダメージは受けません。

共産主義を、対岸の敵のように考えているキリスト教徒は多いと思います。たしかに、中国や旧ソ連などでは共産党によって弾圧されました。しかし、キリスト教が目指す政治形態は、今日、社会主義共産主義と呼ばれるものなのですから、「共産主義者」と言っても、それは罵ることにはなりません。かれらは、「キリスト教を虐める『中国共産党』」という意味で「共産主義者」と言って人を罵っているつもりなのでしょうが、共産主義を罵ることは、自分自身が目指している理想を罵ることになってしまうでしょう。

太平洋戦争で、日本基督教団は軍や政府におもねって、戦勝を願うために伊勢神宮に参拝し、日本基督教団号 - Wikipedia という名前の戦闘機を献納したりしていますが、そのことを自白したと言っても、チャラになるわけではありません。

第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白 - 日本基督教団公式サイト

一貫して戦争反対を叫び続けた日本共産党のほうがよほど立派に思えます。

 

キリスト教が共産社会をめざしているとは初耳だ、と思う人もいるかと思いますが、カトリックや正教、一部のプロテスタント教会には「修道院」というものがあり、修道士や修道女が生活していますが、かれらの社会は共産社会です。イエス様の理想を、神の国の予型として実践しているわけです。

 

例えば次の箇所などに表されています。

マタイによる福音 19:29-30

おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

共産主義社会においては、労働の多寡は評価されません。実際には、一定の成果を達成するところの能力は人によって差があり、早く達成するものと遅いものの差があるだろうが、神の国でも同様に個別には評価されない、ということを言っているのです。

しかし、そういう団体としての評価には納得できない、違和感を感じる、という人は、天の国にはふさわしくない。あなた方は「いっさいを捨てて、あなたに従いました」というが、実際には何ひとつ捨てていない。まず、そのこだわりと偏見を捨ててしまいなさい、と言っているわけです。

一切を捨てる、ということがいかに困難なことか、仏教では、56億年たったころにできるかもしれないね、といいます。無理ではないが、なかなか難しいだろう、ということです。キリスト教においても同様です。一人や二人達成できたとしても神の国は到来しない。世代を経て理解が浸透し、やがてすべての人に行き渡るには何世代も先のことだろう。早ければすぐにでも理解する人もいるが、おそければ何世代も先のことだ。だから辛抱強く待ちなさい、ということですね。

聖書から気に入ったところを切り出してネットに貼り付けて (・∀・)イイネ!! なんて言って「キリスト教」だと思ってるのはちょっとちがうでしょうね(笑)。

パレスチナとイスラエル

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www.afpbb.com

 

前回の記事「地の塩とは」を書いたあとで、聖書のこの箇所について、死海沿岸の塩の塊のことを知って説教されているのだろうか、と思い、検索してみました。

ざっと見た限りでは、知ってか知らずかはわかりませんが、塩の塊について言及しているものは見当たりません。「地の塩」の「地」は放置されている状態です。まあ、それはいいでしょう。教会の説教なんてそんなもんです。今更、もっと勉強して正しい説教をしろとは思いもしませんし、言うつもりもありません。

そんな中で、ちょっと目を引いた説教がありました。一部引用しましょう。

www.hanamaki-christ-church.jp

塩は、私たちにとってどういう存在でしょうか。私たちは料理をするときにはほとんど毎回塩を使います。塩は料理の味付けをするために欠かせないものです。また塩は食べ物の腐敗を防ぐために用いられます。昔のパレスチナにおいてもそれは同様で、塩は大切な生活必需品でした。

言葉尻を捕まえるような細かい話なのかもわかりませんが「昔のパレスチナ」とは何のことでしょうか。「パレスチナ」とは、西暦135年、ローマがユダヤ人の蜂起を鎮圧し、エルサレムへの立ち入りを禁止、イスラエルを廃止してパレスチナに改名したことに始まる名称で、パレスチナとは、旧約聖書にある「ペリシテ人」に因んだものです。

当時、「ペリシテ人」という民族が実在したわけではありませんが、聖書に記されているイスラエル人の仇敵の名前をイスラエルの土地に与えたのは、ローマのイスラエルに対する侮辱だったわけです。

聖書には、お前たちユダヤ人が侵攻してペリシテ人からカナンを奪い取ったと記されているではないか。今度はお前たちが出ていってペリシテに返してやるのだ。だから、この土地の名前は「パレスチナ(ペリシテのラテン語)」にすればよい、というわけです。以降、1948年にイスラエルが建国されるまで、イスラエルの全地域は「パレスチナ」だったわけです。

ローマによってイスラエルパレスチナという国に変更され、アラブ人に与えられて2000年近く経ったところへ、急に元へ戻すよ、と言われてもそう簡単には行きません。喧嘩になってしまいますよね。それが今の「パレスチナ問題」だというわけです。

話を元にもどしますが、ですので、イエス様の時代には「パレスチナ」という地域は存在しなかったのです。この牧師は「昔のパレスチナ」と言っていますが、そういう事情を知って、それでもそう言ったほうが信者にわかりやすいだろうからと判断してそう言ったのでしょうか。

おそらく、それは無駄な期待でしょう。何も知らず、なんとなく雰囲気だけで説教をしているのです。説教というのは聖書の解説です。聖書を解説するということは、神を解説するということであるはずです。それに、そんないい加減なやっつけ仕事でいいのでしょうか。しかし、この程度だというところがキリスト教の実際なのでしょうね。

地の塩とは

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www.deadsea.com

 

前記事「聖霊降臨とは - キリスト教大辞典」に、以下のご指摘がありました。

あなたも『聖書は(ヘブル的視点で)解読しないと本質は理解できない』というお立場なのですかね?

『注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。』の意味について。 

そして以下のようにお答えしたのですが、

違います。日本語で、です。日本語でも『注意深く』行きたいものです(笑)。

 

これ、早合点してお答えしてしまったようです。ヘブライ語に精通していなければ理解できないと考えているのか、と聞かれた、と早合点してしまいました。そうではなくて「ヘブル的視点」が必要と考えているのか、ということだったのですね。

改めてお答えしますと、ある程度は必要だろうと考えています。たとえば、次の福音書の箇所です。

マタイによる福音 5:13

あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

 日本では、塩と言えば海水から精製したものであって、米屋とかスーパーなどで購入するもの、という理解になるでしょうが、死海周辺においては、上の写真のように塩の塊がゴロゴロあって、周辺の住民はいつでもこれを持って帰って、塩として使用することができたわけです。

このような状況がわからなければ、「あなたがたは、地の塩である」の真意を汲み取ることができないでしょう。塩のように、地面に転がっていて、必要なときにすぐに役にたつ、そのような、人にとってなくてはならない存在になりなさい、と言っているわけですが、写真のように塩が地面に落ちている状況を知らない限り、何のことなのかはっきりしないのでは無いかと思います。

また、「塩のききめがなくなったら」とは、塩がただの白い粉になってしまったら、という意味?ってことになりますよね。でも、塩が写真のような状況であることがわかれば、「なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」の意味を理解することができるでしょう。

残念ながら、ヘブル的視点が全く無い状態でも聖書は理解できるよ、とは言えないでしょうね。それほど「普遍的」な内容ではありません。そういう説明を省いて読み進めると、勝手な解釈が発生して、多くの場合、迷信につながっていると思います。

聖霊降臨とは

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myocn.net

 

使徒行伝に「聖霊降臨」と呼ばれるエピソードが記録されています。引用してみましょう。

使徒行伝2:1-15

五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。
ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

 

福音書、およびルカ福音書の続編である使徒行伝の記述は、イエス様の喩え話と、それを取り巻く喩え話、という二重の喩え話で構成されています。般若心経がお釈迦様の「方便」で構成されていることとよく似ています。何の前提を有しなくても、少しでも真実に近づくことができるように、そのように配慮されているのです。

しかし、喩え話にせよ、方便も同じですが、聞いている人を騙すことが目的ではありません。この聖霊降臨を記録した記述にも、「書いてあるその通りのことが起こったわけではないんだよ」という暴露が含まれています。次の記述です。

しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

よく考えてみて下さい。エルサレムで、ユダヤ語を話せない外国人が、話の内容を理解することができた、というのであれば、本当か嘘かを知りたいのであれば、本人に確かめればすぐにわかることなのですから、それを「酔っているのだ」とあざ笑うことには違和感を感じます。「一同は聖霊に満たされ」と記されているのに否定するものもいたのです。

この出来事の本当の意味は、イエス様に関する説明を、それぞれの母国語に訳する通訳者の助けを借りて聞いて、その価値に共感して感動したのだ、ということを言っているわけです。重要なことは、かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが、イエス様の教えには感動したのだ、と言いたかったわけですね。だから、そんなのは酔っ払っているだけだ、と笑うものがいたのです。

聖書は嘘や迷信で満たされているわけではありません。しかし、注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。

 

※ ご指摘がありましたので追記しておきます。

一つ目

この辞典の解説の中に
『かれらが外国人であって、異教の信者であったという点です。彼らはユダヤ教には興味がなかったが・・』とありますが、ユダヤの祭りペンテコステにわざわざエルサレムに来ていたんですよ。
それと、使徒2:16-18にペテロがはっきりと酔える 違う、ヨエルの預言を引用してます。

僕は京都に住んでいるのですが、例えば毎年祇園祭にはたくさんの外国人が見物に訪れてくださいますが、彼らが祇園社牛頭天王に帰依するため、あるいは八坂神社の素戔嗚尊に参拝するために来られたとは、ちょっと考えにくいように思いますがいかがでしょうか。

酔える、じゃなくてヨエルの件についてはその通り、引用していますね。

 

二つ目

あなたも『聖書は(ヘブル的視点で)解読しないと本質は理解できない』というお立場なのですかね?

『注意深く何を言いたいのかを探りながら読み進めなければ、迷信と呪いの指南書に成り下がってしまいます。そうなってしまった例が、現在のキリスト教という宗教です。』の意味について。

 違います。日本語で、です。日本語でも『注意深く』行きたいものです(笑)。

 

三つ目

前回、あなたのツイートに反応したら、「この方は『反キリスト』の可能性があるから〜」という忠告を受けました。
あなたにとって『反キリスト』の称号が与えられるのは、最高の幸せと思い、報告します。
自分は、受洗しキリスト教の知識も豊富なあなたが、キリスト教を批判するのが好きなのです。

 たしかに大賛辞ですね。可能性も何も、僕は『反キリスト』です。その方によろしくお願いいたします(笑)。