キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

教会音楽について

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gipsymania.exblog.jp

 

最近は教会も裕福になってきたようで、なにはともあれパイプオルガンを導入する、というようなケースが増えてきているのだそうです。中には、特別に積立を行って、信徒の子女を音大のパイプオルガン科へ行かせて、オルガニストとして養成するようなところもあるのだとか。

しかし、パイプオルガンは導入したもののオルガニストがいない、または定着しない、あるいは素人が無理やりブーブーやって壊した結果、壁の飾りになってしまって、結局安物の電子オルガンをピコピコ鳴らしているのだとか。まあ、贅沢な(馬鹿げた)お金の使い方です。

僕は、写真のようなシンプルな講壇前にリードオルガンを据えて、手入れして大切に使っているような教会がいいと思います。人物で隠れてしまっていますが、講壇の左前には古いリードオルガンがあります。講壇上に椅子がズラリと並んでいるのは組合教会の特徴です。

ついでにお話すれば、プロテスタント教会の講壇上の配置には大きく分けて二種類あります。真ん中に聖餐台(祭壇)があって蝋燭が常置されていれば、間違いなくルター教会で、上の写真のように、真ん中に講壇(説教台)が、その手前に聖餐台があればカルバン系の教会です。この二種類があって、カルバン系をさらに細かく分けると、前述したように、椅子が並んでいれば組合教会、なければ長老・改革教会、恵みの座があればメソジスト教会です。メソジスト教会は聖餐のとき跪く習慣がありますが、その際に使うスクリーン(柵のようなもの)を恵の座といいます。昔のカトリック教会にはこれと同じものがありました。まあ、あくまで目安ですが、こんな特徴があります。

※少し補足します。メソジストにはいくつかの流れがあって、講壇の配置も一様ではないのだそうです。下の写真は、おそらく聖餐台が中心にあってルター派の教会に近い様式ですが、メソジストの場合、ルター派に近いというより英国国教会に近いと言った方が正確でしょう。また、恵の座も無くて、全くカルバン派の教会の様式を取る教派もあるようです。

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メソジスト教会聖餐式

Sunday Services

 

話を戻しますが、実際は、上の写真の教会にも、後部の歌隊壇にパイプオルガンが導入されているのですが、この程度の聖堂であれば講壇前のリードオルガンだけで充分です。

それにしても、なぜどの教会も教会音楽を更新したがるのでしょうか。ずっと同じ様式を変えないのは正教会ぐらいでしょう。プロテスタントでは「賛美歌21」なるものへ移行しようとしているようですが、案の定不平不満が噴出しています。カトリックは「典礼聖歌」なるものを作成しましたが、これがもう劣悪なものです。昔の「カトリック聖歌集」は廃止して典礼聖歌一本で礼拝を行う教会もあるのだとか、随分気の毒な気がします。どんなことでも、だんだんとレベルを上げていくのが潮の流れだと思うのですが、わざと下げて行くということは珍しい現象だと思います.

もう随分前の話ですが、京都の繁華街にあるカトリック教会のミサに参加したことがあるのですが、わりと上手なオルガニストでしたので、終了後の奏楽を楽しみに待っていますと、バッハのコラール前奏曲「目覚めよと呼ばわるものの声がする」を弾き出しましたので吹き出しそうになりました。礼拝が終わった後の後奏に「前奏曲」を演奏するとはトンチンカンもいいところです。

おかしいのはカトリックばかりではありません。改革教会にも大きな問題があります。改革教会の「改革」はカルバンの宗教改革の「改革」を意味します。「改革教会」を名乗るということは、カルバンの意思を引き継いでいるのだという自覚を持っているということのはずですが、カルバンが定めた教会音楽は、無伴奏、単一音声部で歌われる「ジュネーブ詩篇歌」でした。Wikiから引用してみましょう。

つまりカルヴァンにとって詩篇歌は、福音説教と同じ地位にあるものであり、神の言葉(聖書)にもとづく詩篇歌のみで讃美することをすすめた。

 しかし実際には、改革教会のHPを見ると、大きくなパイプオルガンが設置されていることを宣伝し、ストップ数の多さを自慢しているように見えます。いくつか 見てみましょう。

rcjinagekaigan.jimdo.com

www.ashiyachurch.net

www.fujimicho-kyokai.org

なんとなくキリスト教っぽかったらそれでいい、一応古めかしい伝統の匂いがする看板はかかげておくけど、大衆受けしない理屈とかは面倒臭いからどうでもいいや。

こういうことで本質が失われてしまわないはずがありませんよね。日本のキリスト教の実態はその程度ってところでしょうか。

人の三位一体性

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https://www.trinitydome.org/about/

 

過去記事「三位一体」では、神が3つのパーツからなる、という考え方はキリスト教のオリジナルではない、ということをご紹介しました。

今回は、Barbaroi! というサイトから「三相一体、三柱神、三位一体(Trinity)」という記事をご紹介します。一部引用してみましょう。

 太古の昔から太女神は概念的には三相一体であり、以後のすべての三相一体(女神だけから成る場合、男神だけの場合、両者の混合の場合を問わず)の原型であった。紀元前7千年紀のアナトリアの村では、若い娘・子どもを生む女性・老婆の三つの面を持つ太女神を崇拝した。この処女-母親-老婆という典型的な組み合わせは、インドではパールヴァティParvati-ドゥルガーDurga-ウマUma〔カーリーの三相〕、アイルランドではアナ-バブド-マハ〔モリガンMorriganの三相〕、ギリシアではヘーベーHebe-ヘーラーHera-ヘカテー Hekate、運命の三女神モイラたち、怪物の三姉妹ゴルゴンたち、海の三女神グライアたち、生誕・成長・衰亡の三女神ホーラたちなどであった。ヴァイキングの間では三相一体の女神は、運命の三女神ノルンたちNorns、ローマ人の間では、運命の三女神フォルトゥーナ Fortunaたち、ドルイド教徒の間では、ディアーナ・トリフォルミスとして現れた。「三相一体の女神」は三つ以上の姿、ときには数百におよぶ姿をとった。

 ローマ時代以前のラティウムでは、三相一体の女神は、ヨーニyoniと同語源のウニUni(「一なるもの」)という集合的名称のもとに、カピトリウム神殿に祀られていた三柱女神として崇拝された。この女神の三つのペルソナは処女ユーウェンタスJuventas、母親ユーノーJuno、賢い老婆メナルウァまたはミネルウァMinervaであった。ローマ帝国治下では、ユーウェンタスは追放され、男神であるユピテルJupiterが代わりに入った。現代の学者の中には、この後期の、2柱の女神と1柱の男神からなるカピトリウム神殿の三柱神を「三柱の男神」と呼ぶ者もいる。まるで女性2人と男性1人のグループを「3人の男」と言うがごとくである。

 次も興味深い説明です。

 中東には多くの三柱神の例があり、そのほとんどは元来、女神のみからなっていた。時が経つにつれて、三柱女神のうちの1柱ないし2柱は男神に変わった。一般に父-母-息子の形をとり、息子は救世主と考えられた。

 三柱神の概念は紀元前14世紀に、ハッティ族とミタンニ族から生まれた。紀元前5世紀のバビロニアでよく知られていた三柱神は太陽神シャマシュ、月神シン、星の女神イシュタルからなっていた。ギリシアでもこれを受け継いで、太陽神ヘーリオス、月の女神セレネ、星の女神アプロディーテーとなった。コストピトゥムで崇拝された父-母-息子の三柱神は、ユピテル・ドリケヌス、天上のブリガンティア、サルスの3柱であった。

 グノーシス派でも、三相一体(三位一体)の概念は同時代の東方の父-母-息子の型に倣い、聖霊を知恵の女神ソフィアを表すハトとみなし、コンスタンティノープルでは太女神として崇拝し、たいていのグノーシス主義者は神のシャクティShaktiと考えた。キリスト教の神は本来、ブラフマンーやディヤウス・ピターのような極東の天界の父を模したものであるが、天空神はすべて、女性的な源であるシャクティ(「神の妻」)を必要とした。さもないと彼らは行動できなかった[18]。それゆえ、三柱神の1柱が女神であることは神にとっても不可欠であった。アラビア人のキリスト教徒の間では、明らかに神-聖母-イエスの聖なる三柱神が存在し、エジプトの三柱神(ウシル〔オシーリス〕-アセト〔イーシス〕-ヘル〔ホルス〕)に代わりうるものとして等しく崇拝された。

いかがでしょうか。この説明によれば、キリスト教は、当時流行のいろいろな民族宗教が習合した結果であったことがわかりますね。

しかし、ミサとミトラス教の聖餐秘儀の類似性を指摘されると、「悪魔が未来から予め盗用していたのだ」というような奇想天外な言い訳を思いつくばかりか、真剣にそれを主張するのがキリスト教という文化です。この三位一体の件についてもなんだかんだと聞き苦しい屁理屈を並べて言い訳をするのでしょう。

それではここで、創世記を読んで見ましょう。

創世記 1:26-31

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

 神は、神自身に似せて人間を作った。そしてその結果「はなはだ良かった」つまり、とても良く似たものができた、と評価した、と記録されています。

おわかりでしょうか、神が三位一体であると言うのなら、われわれも我々自身の中に、三位一体的な性質を感じていなければならないことになりますが、実際にはそんなことはありませんよね。

三位一体は当時流行していた宗教における神の特徴であって、神といえば3つに分割するものだったのです。だからローマ国教となるべき新宗教の神も三位一体にした、ということに過ぎなかったわけです。

 私の中には父と子と聖霊がいる、と感じている人は、おそらく病気でしょうから診察してもらったほうがいいと思いますよ。

神の国とは何のことか

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todiscoverrussia.com

 

過去記事「右の頬と左の頬」でも書いたのですが、もう一度マタイによる福音書 第五章38-42節を読んでみましょう。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

山上の垂訓の一部です。過去記事では、色々な解釈もありますが、この箇所は単純に、ガンジーのような無抵抗主義を勧めている、と考えればよいだろうとまとめました。

今回は、この箇所が本当に言いたいことは何か、ということを考えてみましょう。

「山上の垂訓」とは、「神と神の国」について説明するところの説教なのですから、その説明の中で、右の頬を打つものと、打たれるものが、人と人である、と解釈することは間違いです。イエス様は「神がそうするように」という前提でこの説教をしたわけです。

ですから、右の頬を打つものはクリスチャンであって、打たれるものは神、下着を取るものはクリスチャンで、取られるもの、上着を与えるものは神、一マイルを強いるものはクリスチャンで、二マイルを共にするものは神なのです。

神は厳格で冷酷、と思っているかも知れないが、あなた方が背いたとき、神はあなた方を打ったか、見放したか、よく考えて見なさい、という問いかけです。

だから、その通りにするのは難しいだろうが、なるべくはその傾向を持ちなさい、と言っているわけですね。

不正なもの、誤っているものを見かけたら、指摘したりただそうとしたりすることは間違いではないでしょう。しかし、相手が泣いて謝るまで叩き続ける必要はありません。世の中の仕組み(『神』と言い換えてもいいでしょう)に任せる決断も必要だということです。神の国とは、そうやって築かれる、理想的な社会の状態のことです。死後の世界のことではありません。

クリスチャンはこの箇所を読んで、右の頬を打たれるものは私自身のこと、としか理解できないようですが、残念ながら、そこまで堕落した文書ではないようです。

サウロの回心

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isgabrasil.blogspot.jp

 

使徒言行録には「サウロの回心」と言われるエピソードが記録されています。見てみましょう。

使徒言行録 9:3-7

ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。

 

そして、後にこの出来事を説明する際の発言を見てみましょう。

使徒言行録 22:6-9

旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。

 あと一箇所、アグリッパ王への弁明の場面では

使徒言行録 26:13-14

王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。

 

お気づきでしょうか。最初、同行者たちは

「声だけは聞えたが、だれも見えなかった。」

と説明がありますが、22章では

「その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。」

そして26章では

「それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。」

と記述されています。

 

僕は、説教で、「パウロは慌て者だったので言い間違えたのだ」という説明を聞いたことを憶えていますが、おそらく皆さんも同様のことを聞いた、または教えられたでしょう。

しかし、使徒言行録はパウロではなくて、ルカ福音書の作者によって著作されたものです。使徒言行録はルカ福音書の続編なのです。著者自身の記憶から書いたとしても、何らかの伝記や言い伝えのようなものから書いたとしても、このような間違いがあることは不自然なことです。

この不思議な痕跡は、実際にはある種のメタファーなのだと考えれば納得できます。つまり、迫害されるが、やがて迫害者本人によって認められる。そしてその本人は、迫害側の主流派の一員であり、有力者であったのだ、という当時一般の宗教セオリーを一通り書いておきましたよ。でも本当のことじゃないからわかる人にはわかるようにしておきましたよ、という符牒だったのではないでしょうか。

そうです。あなたのご指摘とおり、ただの妄想なんですけどね(笑)。

パンは増えたのか

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unknown-artist-the-miracle-of-the-loaves-and-fishes-2-basilica-di-santapollinare-nuovo-ravenna-italy-6th-century | Art in Faith

 

福音書には、イエス様が奇跡でパンを増やした、と記されている、と教会は教えます。本当にそうでしょうか、くだんの箇所を確認してみましょう。

マタイによる福音 14:16-21

するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。

これは奇跡の記録ではありません。淡々と事実を叙しているだけです。奇跡を説明するのであれば、弟子の手にパンや魚が生じたことを述べているはずなのです。

どういうことなのか、何を言いいたいのかといいますと、福音書のこの箇所は、イエス様は、裕福なパトロンが、彼の家令や下僕に充分な食料を持たせて用意していることをよく知っていたのだ、ということを記録しているだけなのです。

いい加減なことを言うな、と思われましたか? 証拠があります。もう少し先を読んで見ましょう。これは、また別の場面でのエピソードです。

 

マタイによる福音 15:32-38

エスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。 

 

前回、イエス様が超能力で食料を増やしたというのであれば、今度もまた同じようにしてくれるだろう、と期待すればいいだけの話です。しかし、弟子は「どこで手に入れましょうか」と心配しています。前回はたまたま群衆にパトロンがいたから助かりましたが、そうそう毎回うまくは行きませんよ」と心配しているわけです。

また、その少し後を見てみましょう。

 

マタイによる福音書 16:8-12

「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。

 

奇跡でパンを増やしたのであれば、イエス様のこの発言には何の教訓も無いことになってしまいます。食べ物に困ったときは俺が超能力でぱぱっと出してやるんだから心配するな、と言われても実際にそんなことはあり得ませんよね。

crd.ndl.go.jp

NPO法人国連WFP協会HP 「数字が語る世界の飢餓」には、「・・世界では、5秒に1人の子どもが飢えに関連する病気で命を落としています。」「飢えと貧困によって、世界では毎日2万5000人の人々がなくなっています。」と記述されているのだそうです。

 

このエピソードには、奇跡ではないからこその価値があります。

食べ物をどうしようかと思い悩むな。頑張れば、人間同士ちからを合わせればなんとかなる。だから、食べ物のことよりも、パリサイ人とサドカイ人、つまり迷信深い宗教によって心が嘘で満たされてしまうことのないように注意しなさい、と教えているわけです。

新嘗祭

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www.sankei.com

 

11月23日は「勤労感謝の日」という国民の祝日ですが、これは元々「新嘗祭」という宮中祭祀が行われる日としての祝日でした。新嘗祭そのものは現在でも行われています。

また、元日は「四方拝」、建国記念日は「紀元節」、春分の日が「春季皇霊祭」、昭和の日は昭和天皇の誕生日、秋分の日は「秋季皇霊祭」、文化の日明治天皇の誕生日、勤労感謝の日は「新嘗祭」、天皇誕生日今上天皇の誕生日、と、日本の祝日の大半は天皇家、または宮中祭祀に由来するものです。

日本で作られた米穀を食べるのであれば、そのコメはすべて新嘗祭において天皇天神地祇に捧げて感謝を奉じたものだということになりますね。クリスチャンであってもコメを食べるでしょうが、そのコメは天皇によって、日本の神々に捧げられたものです。

また、クリスチャンであっても、子供に「お年玉」をあげるでしょうが、お年玉とは、本来、餅玉であって、「たま」とは「たましい」のこと、新年の歳神への供え物だったものが形を変えたものと言われています。つまり、クリスチャン風に言うのであれば、「お年玉」とは、それそのものが偶像であるということになるでしょう。子供に偶像神を与えていることになります。

偶像崇拝を完全に排したいと思っているのであれば、宮中祭祀に由来する祝日には休まず勤務し、食事も日本の神に捧げられたような物は否定するべきでしょう。

日本に住んで、祝日に仕事を休むだけで、クリスチャンであろうがなかろうが、天皇の記念日をともに祝うことになり、宮中祭祀がつつが無く行われることを祈念することになります。

日本に住めば、町々には氏神が鎮座し、辻辻では鎮守の祠が行人を護り、収穫を祝って祭りが行われ、大きく見れば、天皇が国の平和と民草の安泰を祈っています。

日本には日本の神がいるのです。何も無理をして外国の神に罪だ罪だと虐げられる必要は無いとおもいますよ。

そんな大げさな、と笑っている人がいるでしょうが、そこをきっちりと行うのがイスラームハラールであり、ユダヤ教カシュルートなんじゃないのでしょうか。「そんな大げさな」という発言は、キリスト教の言ってることなんて、結局は迷信なんですよ、という本音の告白と受け止めてよいのでしょうかね(笑)。

 

キリスト教を日本に定着させたいと願うなら、キリスト教の神を日本の神々の一柱に加えて神社で祀ればいいでしょう。そしてその神の神紋を十字にすればいいのですよ。参拝の効能などうまく宣伝すれば流行るんじゃないでしょうかね(笑)。

キリスト教と同性愛

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Maspalomas Gay Pride 2018 Gran Canaria – Europe´s favourite gay pride from 3 – 13 of May 2018 at Maspalomas, Gran Canaria

 

過去の記事「同性愛」では、キリスト教が同性愛を禁じることは、聖書に忠実ではないのだということを書きました。

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

 

また、福音書にはつぎのような記述があります。

マタイによる福音 19:12

母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。

 

この、「母の胎内から独身者に生れついているもの」というのは、同性愛者のことなのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

そうであればイエス様は、同性愛者の存在を知っていて、少なくとも否定はしていなかった、と考えることができます。

にも関わらず、教会が同性愛者を排斥しようとすることは、あまり正しいこととは思えませんね。しかし実際には、キリスト教の教会というところは、聖書の精神性を追求するところではありません。聖書を言質としか理解できない稚拙な団体なのです。

「聖書にこうかいてあるんだからいいんだろ、ダメだとかいてあるから禁止だ。違うか」、と、

教会は、聖書から禁忌事項を導き出して人を緊縛するための機関だということです。禁忌事項が多ければ多いほど安心する人が集まっているのです。キリスト教の醍醐味は魔女裁判にこそあるわけで、その味わいを深めるために禁忌事項を大量生産している、というわけです。

同性愛者を排斥しようとする偏見に満ちたキリスト教徒と、そのような信徒に抗って立場の正当化を図ろうとする同性愛者のキリスト教徒の言い争い、という構図はたびたび見受けられます。同性愛者は人間ではない、と、悪口の限りを尽くして罵るキリスト教徒に対して、同じように口汚なく反論する同性愛者のキリスト教徒。聞き苦しいですよね。

僕は、キリスト教徒としての自覚に囚われていた頃、「実は私、キリスト教徒なんですよ。明治から6代続く筋金入りのキリスト教徒一族でしてね」と人に言うとき、どうだ、すごいだろ。お前らとは違って神に選ばれた特別な人間なんだぞ、という気持ちがありました。同じキリスト教徒でも、憧れで洗礼を受けたようなにわかクリスチャンとは重みがちがうんだぞ、という気持ちもありました。皆さんどうですか? あるでしょ? キリスト教徒は非キリスト教徒より優れているのだ、という考え方はすべてのキリスト教徒にあります。そういう考え、要するに差別が好きでなければキリスト教徒にはなりません。残念ながらこれは真実です。

差別したさで入信してはみたけれど、差別される側に立たされたとわかったとたん差別者を非難する、それはおかしいです。キリスト教は、人を差別することが好きな人の集団だということは解っていたばずなのですから、差別が嫌になったならやめればいいだけです。それがマトモな考え方というものです。

同性愛者はなぜ差別されるのか、それは、同性愛者に享楽的で退廃的な傾向が強いからでしょう。不特定多数の他人と性交渉を行う、他人の悪口を言いたがる、自分一人の権利ばかり主張したがる。そのような傾向があります。違うでしょうか。そういうものを宗教が排斥することは当然のことだと思いますよ。宗教というのは差別の基準に過ぎません。高尚な精神性を示すようなものではないのです。

しかし日本の法律では排斥されていません。同性愛者はそれだけで犯罪者だと言われないですよね。当たり前のことだと思います。

わざわざ同性愛者を排斥するような愚劣な団体へ入り込んだ上、その団体に対してそれはやめろと言うのは、どういうんでしょうか、要するに馬鹿じゃないですか、と思うわけなんですけど。