キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

言伝え

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www.myjewishlearning.com

 

 ※この記事では、キリスト教でいう「旧約聖書」を「聖書」と表現します。

 

福音書には「言伝え」という表現が出てきます。引用してみましょう。

マタイ福音書 15:1-6

ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。

 律法には、成文律法と口伝律法があって、成文律法とは聖書の最初の五書のことで、口伝律法はキリスト教には伝わっていませんが、モーセが神から直接授けられたものとされていて、ユダヤ教では「タルムード」としてまとめられています。イエス様が福音書で批判した「言伝え」とは、この口伝律法のことでした。

ユダヤ教の律法は、聖書を読んだだけでは、抽象的で何のことなのかよくわかりません。だからかってな解釈が横行します。たとえばレビ記に「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。」と書いてあれば、これは多分同性愛者のことだろう、と解釈して、同性愛者を排斥するわけです。

しかし、実際には、成文律法は律法の骨子なのであって、それだけでは充分な理解を得ることができないので「口伝律法」で補い、肉付けをして、具体的な意味がわかるようになるわけです。

本来であれば口伝であって、文書にはなっていないものであったのですが、2世紀の末頃、文書としてまとめられたものが「ミシュナー」で、それに解説を付け加えた文書を「タルムード」といいます。

 

恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! というサイトには

タルムードはいわば、へ理屈ラビ(ユダヤ教教師)の妄言集みたいなもの。
聖書のことばをねじ曲げ、人間的な教えに変え、
教師、ラビを「盲人を導く盲人」とし、信者を「自分に倍まさるゲエナの子」にするのに
用いられる。それは、聖書ではなく、聖書の忠実な注解書でもなく、逆に
それは、人々が神のことばに難くせをつけ、へ理屈をいい、
ないがしろにするべく、冒涜の民とするのに用いられる。それは、端的にいえば、悪魔の書である。
以下のタルムードの記述を見よ。

と、さんざんな悪口を並べていますが、これでは異教徒を「豚」と蔑むタルムードと同じですね(笑)

しかし、民族宗教が、その民族を本位にして教義を展開するのは当たり前のことでしょう。タルムードを捨てて聖書を読んだところで、本来の意味が理解できるはずがありません。

 

たとえば、こんなのがあります。

【タルムード珠玉の処世訓】 から

”よく学べ” ただし受け身であってはいけない。

”よく質問せよ” 他人に対してだけでなく自分自身にも」。

”権威を認めるな” 進歩は既成の権威を否定するところから始まる」。

”自己を世界の中心に置け” 他人を軽んずることではない

”幅広い知識を持て

”失敗を恐れるな” 失敗は挫折ではない、その裏側に成功がある、それだけ成功に近づいたと思え

”現実的であれ” 自然に生きろ、可能性と限界を知り無理をしてはならない

”楽観的であれ” 明日は進歩を書き込む白紙、ゆとりを持って白い紙に書き込もう

”豊かなユーモアを持て” 笑いは意外性によってもたらされる。

”対立を恐れるな” 進歩は対立から生まれる。

”創造的な休日を送れ” 人間の真価は休日の送り方で決まる。

“家族を大切にせよ” 家は自分を育てる城である、自分の家を大切にせよ。

イイコト言ってるじゃん、別に捨てなくてもいいのに、と思われたでしょう。でもこんなのもあります。

 

「タルムードの中身その2、悪の論理」 より

「汝等は人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である」(ババ・メチア、146の6)。
「世界はただイスラエル人の為にのみ創造されたるなり。イスラエル人は実にして、他の民は空なる殻皮のみ。従ってイスラエルの他に民族なし。彼等はことごとく空皮に過ぎざればなり」(イェシャヤ法師)。
イスラエル人は人間と呼ばる。しかれども偶像礼拝者は汚れし霊より出でしものなれば、豚と呼ばるるなり」(ロイベン法師)。
「汝等イスラエル人は人間なれど、他の民族は人間に非ず。彼等の魂穢れし霊より出でたればなり」(メナヘム・ベン・シラ法師)。
「悪魔と世界の諸民族とは、畜獣に数えらるべきなり」(ナフタリ法師)。
「犬は異邦人より勝れたるものなり」(アシ法師)。
「ゴイの耳は不潔である。かれらの浴槽、住居、田園は不潔である」(トセフタ・ミクワト、vの1)。

結構酷い内容ですよね。ユダヤ人でないものは人間ではない。汚れている、なんていう部分をローマ国教の正式な教典にはできません。だから福音書で「こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。」と発言させて、これを排斥してしまったわけです。

しかし、イエス様がユダヤ人家庭に生まれ、ユダヤ教の習慣に従って成長した実在の人物であるのなら、聖書とタルムードが、別々のものであるような評価を行わないでしょう。どちらも同じ律法なのですから、それを批判するということは神やモーセを批判するのと同じことであったはずです。このことからも、キリスト教発足のために設定された架空の人物であることがわかります。

タルムードを捨ててしまったせいで、聖書は難解な呪文の羅列に成り下がってしまいました。そんなことをするぐらいなら全部捨ててしまえばよかったのです。

 

申命記にはこのような記述があります。

申命記2:31-36

時に主はわたしに言われた、『わたしはシホンと、その地とを、おまえに渡し始めた。おまえはそれを征服しはじめ、その地を自分のものとせよ』。
そこでシホンは、われわれを攻めようとして、その民をことごとく率い、出てきてヤハズで戦ったが、
われわれの神、主が彼を渡されたので、われわれは彼とその子らと、そのすべての民とを撃ち殺した。
その時、われわれは彼のすべての町を取り、そのすべての町の男、女および子供を全く滅ぼして、ひとりをも残さなかった。
ただその家畜は、われわれが取った町々のぶんどり物と共に、われわれが獲て自分の物とした。
アルノンの谷のほとりにあるアロエルおよび谷の中にある町からギレアデに至るまで、われわれが攻めて取れなかった町は一つもなかった。われわれの神、主がことごとくわれわれに渡されたのである。

異教徒を排斥するどころか、皆殺しにしたことの記録ですね。聖書にも言伝え的な民族優先の要素が顕れています。

ユダヤ教というのは民族宗教です。そもそも世界宗教なんていう都合のよい宗教は存在しません。民族宗教が、自国の領土を侵す他民族を貶して何が悪いのでしょうか。当たり前のことだと思いますよ。

キリスト教ユダヤ教の臭い部分を削ぎ落として洗練させたつもりでいるのかもしれませんが、本来の意味を理解できていなかったので、結局は陳腐化させてしまっただけです。

言い伝え部分は聞き苦しいから除外した。それでは、聖書の本質を知ることができません。そもそも、ユダヤ人でも無いものが聖書を知ることは不可能なのです。まず、非ユダヤ人を「豚」と罵ることができてから聖書を開いてみてはいかがでしょうか。

 

もう一度、恐るべきユダヤ悪魔教の教典タルムード!! を見てみましょう。

聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。
異邦人は、人でないので、いくら殺しても良いとのタルムードの教えは隣人パレスチナ人を虐殺する、彼らユダヤ人により実践されている。この様な異端教理に従うユダヤ人は、聖書の民と言うより、聖書を曲解する悪魔の民と呼ぶべきではないのか?

笑止千万です。聖書との関わりでいえば、キリスト教徒よりもユダヤ教徒のほうが先輩だという事実を知らないのでしょうか。モーセは神から成文律法と口伝律法を授かったのですから、タルムードには聖書と同じ権威があるのです。

『聖書のいう「殺すなかれ」とのことばは、イスラエル人を殺すなかれ、との意味である。』これが、聖書の真意なのです。

アポロンとダフネ

この記事も過去ブログで書いた記事ですが、ログを取っておいて下さいましたので流用させていただきます。一部間違いがありましたので修正しています。

 

キリスト教徒が、旧約聖書で禁じられている「神の像」を展示するのはなぜかといいますと、神であるイエスキリストが目に見える状態で人類に現れたからだということになるらしいです。なるほど。それはそれで納得するとしましょう。確かに一理あります。しかし、まさか異教の神の像を造形して展示するようなことはありますまい。そのはずです。が、本当にそうでしょうか、見てみましょう。

イタリアのルネサンス期を代表する画家、ボッティチェリは、「聖母子と8人の天使たち」という絵画を描きましたが、その同じ手で「ヴィーナスの誕生」という作品を残しています。ヴィーナスとは異教の女神です。 

 

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Before Bowie, there was Botticelli

 

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Some Masterpieces from the Public Domain: Botticelli   Daystar

 

ボッティチェリより少し後の人、コレッジョは、「幼児キリストを礼拝する聖母」という作品を残しましたが、やはり同じその手で「ヴィーナスとマーキュリーとキューピッド」という作品を残しています。「愛の手ほどき」というサブタイトルがあるこの絵画に登場する三人はいずれも異教の神です。

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Correggio. The Adoration of the Child - Olga's Gallery

 

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Venus with Mercury and Cupid ('The School of Love') | Art UK

 

ミケランジェロも、「サン・ピエトロのピエタ」を造った同じその手で「バッカス」を刻んでいるのです。

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St Peter's - Chapel of the Pieta

 

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ミケランジェロ・ブオナローティ - Wikipedia

 

ベルニーニは「アポロンとダフネ」を作りました。

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ダプネー - Wikipedia

 

モーツァルトだって同罪です。オペラ「魔笛」はエジプトのお話であって、神官や怪物が登場します。

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The Magic Flute | The Worlds of J. Matthew Root

 

そして甚だしきはこの「エステ荘の噴水」を成す異教の神々の像です。エステ荘「Villa d'Este」の庭園に作られた噴水がエフェソスの神話の女神アルテミス(多産の女神)の像になっています。エステ荘はカトリック教会の高位聖職者である枢機卿の邸宅として建設されました。

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  Tivoli Archivi - ROMAN-GATEWAY

 

聖書において、異教の神を造形することは明確に禁じられています。読んで見ましょう。

出エジプト記32:19-20 (日本聖書協会新共同訳聖書より)

宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りとを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き」、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。

 モーセイスラエルの人々が異教の偶像神を礼拝しているのをみて激怒したのだと伝えています。異教の偶像神を礼拝することはもちろん、律法では、イスラエルの神であっても造形で表現してはならないと明確に禁じています。

それなのに、なぜ堂々と芸術作品として作成され、500年間も大切に保存されてきたのでしょうか、それは一言で言って、本場ヨーロッパのキリスト教徒はさほど真面目にキリスト教を信仰しているわけではないからです。心からキリスト教の神を信じているのであれば、その信仰対象である神が禁じたことを行うことができるものでしょうか、自分のこの手で悪そのものである異教の神を造形するのかと思うと手に持った筆やノミが震えて仕事にならないことでしょう。また、そのようなものを大切に伝えて行くことはそれ自体神に反する行為であると思わねばならないはずですが、実際には、ベルニーニのアポロンとダフネの造形は、彫刻史上最高とまで評価されています。

ヨーロッパのキリスト教徒は、「神」なんて方便にすぎないのだと考えているのです。実際に神が存し、現実世界に君臨しているのだと理解しているのであれば、「アポロン」や「ヴィーナス」を造形することはできないはずです。また枢機卿が自邸の庭に「多産の女神」の像を置くことはあり得ないはずでしょう。

日本のキリスト教徒のみなさん、あなた方の「信仰」しているものは現実的にはそんなもんです。

 

ウエストミンスター小教理問答書検証 -問37,38-

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coinweek.com

 

この記事も、旧ブログ(キリスト教の問題点について考える)の記事のログを取って頂いていたものの流用です。旧ブログではウエストミンスター小教理問答書を一通りざっと検証しましたが、この記事はその一つでした。

 

ウェストミンスター小教理問答書

問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ(1)、直ちに栄光にはいります(2)。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま(3)、復活まで(4)墓の中で休みます(5)。
  1.ヘブル12:23
  2.Ⅱコリント5:1、5:6、5:8、ピリピ1:23、ルカ23:43
  3.Ⅰテサロニケ4:14
  4.ヨブ19:26-27
  5.イザヤ57:2


問38 信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。
答 信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて(1)、審判の日に、公に受け入れられ無罪と宣告され(2)、永遠に(3)、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます(4)。
  1.Ⅰコリント15:43
  2.マタイ25:23、10:32
  3.Ⅰテサロニケ4:17-18
  4.Ⅰヨハネ3:2、Ⅰコリント13:12

 

「愛娘の目前で行われました」一昔前なら、馬鹿な読み方をするな、と叱責されるようなニュースの読み方です。一から順に話をしていかなければ何のことなのかわからない。話を人に伝えることは、ただでさえ難しいことであるのに、殺人事件の報道を「愛娘の目前で行われました」とやり始めることが果たして最適なのかどうかということでしょう。

なんとか話にインパクトを加えようと画策してのことなのでしょうが、ニュース報道は、事実をただ淡々と伝えれば、それだけで良いのであって、田舎臭い操作は不必要だと思います。

この問答も田舎臭い押し付けでしかありません。信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けるのか、という提起をする前に、信者は、死の時、キリストから祝福を受ける、というのであれば、まずそれを説明するべきなのに、どんな祝福を受けるのか、という問題に飛んでしまっているわけです。ひょっとして小教理問答だから飛ばしているけれど、大教理問答ではこの点の説明があるのだろうか、と思って確認してみたのですが、言葉が違うだけで、全く同様でした、ご覧ください。

問86 見えない教会の会員が死の直後に享受する、栄光におけるキリストとの交わりとは、何であるか。
答 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストと共にもつ栄光における交わりとは、次のことにある。すなわち、彼らの魂は、その時全く聖くされて(1)最高の天に受け入れられ(2)、そこで光と栄光のうちにいます神のみ顔を仰ぎ(3)、彼らの体の完全なあがないを待っている(4)。その体は、死にあってもなお続いてキリストに結合され(5)、終りの日に彼らの魂に再び結合されるまで(6)、床にあるようにその墓に休息する(7)。これと反対に、悪人の魂は、その死の時に地獄に投げ入れられ、そこで激しい苦痛と全くの暗黒の中にとどまり、また彼らの体は、大いなる日の復活と審判まで、獄屋にあるように閉じ込められる(8)。
    1 ヘブル12:23
    2 Ⅱコリント5:1,6,8、ピリピ1:23(行伝3:21、エペソ4:10と比較)(*)
      * ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較
    3 Ⅰヨハネ3:2、Ⅰコリント13:12
    4 ロマ8:23、詩16:9(*)
      * 1658年版による。1648年版の19:6は誤り
    5 Ⅰテサロニケ4:14
    6 ヨブ19:26,27
    7 イザヤ57:2
    8 ルカ16:23,24、行伝1:25、ユダ6,7


この問86の前にも、やはり、見えない教会の会員は死の直前に、栄光におけるキリストとの交わりを享受するのだ、ということは説明されていません。

このような教理問答書は、結局、情緒不安定な宗教的妄言でしかないわけです。キリスト教が「宗教」ではなくて「真理」であると主張したいのであれば、一つ一つのことを余さず丁寧に説明せねばなりません。

キリスト教の説明は科学の説明では無いのだから、とおっしゃるでしょうか、そんなことはありません。科学とは世の中の事実をあとから説明していることなのですから。科学があって、事実がそれに従属しているわけではないのです。

たとえば、聖書には、神殿への献金フェニキアシェケル貨幣で行われるように指定されていたと記述されていますが、これは、フェニキアシェケルの金含有量が優れていたためであって、そのような判断を行う科学的な考え方があったことを聖書自身が伝えていることがわかります。また、ノアの方舟の製造方法、臨在の幕屋の作成方法の指示内容の説明も「科学的」だと言うことができるでしょう。

このように、聖書の記述内容は、実は、実務的で、また、科学に基づいている場合がほとんどです。聖書は宗教を示唆してはいなかったからなのです。宗教ではなかった聖書を宗教のステージまで引きずり下ろして「真理」と命名してしまったもの、それがキリスト教という宗教であるわけです。

キリスト教は本当に「宗教」ではなくて「真理」なのでしょうか、真理であるというのであれば、万人が共通の理解を導き出すことができる説明が行われるはずです。

「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。」

え? 信者は、死の時、キリストから祝福を受ける、という前提があるんですか?

というような説明ではダメですよ。ということです。結局、キリスト教という文化も、人を幼稚で感情的な宗教という不必要な遊びに誘う害毒に過ぎないということです。キリスト教を分類すれば、オウム真理教統一教会と同じ列にしか並ばない。これが現実です。

 

安息の年

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Shavuot

 

創世記で、神は6日で創造を終えて7日目に休息した、と記述されているので、週の最後である第七日は安息日と定められています。ユダヤ教キリスト教は土曜日、イスラームでは金曜日です。キリスト教では日曜日が安息日だと思っている人がいるように思うのですが、キリスト教でも安息日は土曜日で、日曜日は「主の日」です。

キャッチアイ画像に引用したシャブオットとは、過越祭、仮庵祭に並ぶユダヤ教の三大祭で、日本語では七週祭、または五旬祭と言いますが、春の収穫をお祝いするところのお祭りです。

七週祭は、過越祭を基準にして七週間を経た次の日であることから、五旬祭は過越祭を基準にして50日目(1旬は10日)であることからそう言われますが、シャブオットは50日という意味で、そのギリシャ語がペンテコステです。このシャブオットのお祭りの最中に、聖霊が降臨した、という記述が残っているので、キリスト教ではペンテコステ聖霊降臨をお祝いしています。どうも「ペンテコステ」を「聖霊降臨」という意味だと思っている人がいるような気がするのですが、そういう意味ですので覚えておけばいいでしょう。

 

さらに、ユダヤ教には、「安息年」というものがありました。引用してみましょう。

 

出エジプト記 23:10-11

あなたは六年のあいだ、地に種をまき、その産物を取り入れることができる。しかし、七年目には、これを休ませて、耕さずに置かなければならない。そうすれば、あなたの民の貧しい者がこれを食べ、その残りは野の獣が食べることができる。あなたのぶどう畑も、オリブ畑も同様にしなければならない。

 

レビ記 25:3-10

六年の間あなたは畑に種をまき、また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、その実を集めることができる。しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。あなたの穀物の自然に生えたものは刈り取ってはならない。また、あなたのぶどうの枝の手入れをしないで結んだ実は摘んではならない。これは地のために全き休みの年だからである。安息の年の地の産物は、あなたがたの食物となるであろう。すなわち、あなたと、男女の奴隷と、雇人と、あなたの所に宿っている他国人と、あなたの家畜と、あなたの国のうちの獣とのために、その産物はみな、食物となるであろう。あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。

 

6年間耕作をして7年目には休みなさい、と言っていますね。人の疲労を休めるため、というよりは、当時は性能の良い肥料がなかったので、土地の疲労を休めるため、という意味合いが強かったのではないかと思います。

こちらも七年を七回繰り返した50年めは「ヨベルの年」として特にお祝いし、恩赦などが執り行われたと記録されています。

 

さて、そんなどうでもいいようなことを長々と説明して、結局何が言いたいのかといいますと、「什一献金」などと言って、旧約聖書から古臭い律法を持ち出して信者に押し付けるのであれば、安息年も守らなければなりませんね、ということです。七年毎に一年間無献金の年を規定しないのであれば、什一献金を受け取るものは神に呪われることになりますよ。

 

そもそも、什一献金とは、カトリック教会が始めたことです。 十分の一税 - Wikipedia から引用しましょう。

旧約聖書』の「レビ記」・「申命記」では、全ての農作物の10%が神のものであると説かれている。これを根拠に教皇庁は十分の一税を徴収した。シリア正教会は『シリア正教カテキズム』で、十分の一税を教えている。しかし、ローマ法にはこの規定がなく、あくまでも自由意志に基づく納付であるとする見解も存在し、同じキリスト教国であってもビザンツ帝国では課税されていなかった。

 偶像崇拝だ免罪符だと、ツッコミドコロは飽くまでブチのめす癖に、自分たちの利益になるとみるや、真似どころか拡大解釈して強請り取りの口実として便乗悪用し、まんまと口を拭って知らん顔。

「恥」という言葉の意味を知っていますか?

落ち穂拾い

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落穂拾い (絵画) - Wikipedia

 

ミレーの落穂ひろいです。旧約の律法を主題にしていることはご存じだったでしょうか。

 

落穂拾い - Wikipedia を見てみましょう。 

旧約聖書レビ記」19章9節から10節に定められた律法に、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。…これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」とある。また「レビ記」23章22節には「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい。」、「申命記」24章19節には「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」とある。これは近代の農村社会でも貧者の権利として一部に残っていた慣習である。
「ルツ記」では、未亡人となったルツが義母のナオミを養うために、裕福な遠縁の親戚ボアズの畑で落穂拾いをする。ボアズは姑につくすルツに好意をもっていた。この姑ナオミのおかげで、ルツとボアズは結ばれ、ダヴィデの祖先となる。
ジャン=フランソワ・ミレーの絵画「落穂拾い」のテーマでもあり、農村の貧しき人々を描いただけの作品ではない。

 律法は、人間を緊縛するための禁忌事項で満たされた冷徹な文書ではありませんでした。貧者をいたわり、異教徒である外国人にも配慮した、人間性豊かな思想が現れた法であったのです。

マラキ書には、十分の一税を怠るなという戒めがありますが、落穂ひろいの箇所を読めば、誰にでも一律に適用されたわけではなかったのであろうと想像できます。まずは貧しいものをいたわってやれ。いわばこれがモーセの律法の精神だったのです。

什一献金というならば、その前に貧しい信者には教会が生活の保証をする、という条件が必要になるでしょう。

心の貧しいものとは

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blog.youversion.com

 

マタイ福音書五章には「山上の垂訓」と呼ばれる箇所があります。見てみましょう。

エスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

この、最初にある「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」については、解釈に苦心しているようで、ネットで検索すると、いろいろな説明が見つかりますが、「こころの貧しい人」とはどういう人のことなのか、言葉数は多いのですが、結局どうなのかがはっきり説明されているものが見つかりません。

しかし、はっきり言って、どの説明も考え過ぎなのです。日本語で「心が貧しい」というと悪口になりますが、そういう慣用的な意味合いに囚われているようです。

これは、ヘブライ語アラム語に特有だとか、霊的な秘められた意味合いがどうだとか、そういうことはなくて、その意味そのままで良いのです。

「心が貧しい」とは、「精神性や知識(心)が充分ではない(貧しい)ということを自覚している状態」を意味しているのです。翻って言えば、「向上心を捨てない」ほどの意味になるでしょうか。逆に言えば、「もうこの辺でいいや。もう十分だろ」と達観するものはダメだ、ということになります。

常に向上心を捨てずに進歩を目指すもの、そのような人によって、天国(理想的な社会)が実現されるんだよ、だからあなたがたは、そうなりなさい、と教えているわけです。

 

聖書と数字

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askgramps.org

 

聖書には様々な数字が現れます。イスラエルの12部族、イエスの弟子が12人、12の小預言書、黙示録の新しいエルサレムには東西南北に3つづつ、合計12の門がありますし、年に12回実を結ぶ生命の木がありました。

また、出エジプトに要した年数が40年、荒れ野での断食が40日間、のように、特に12と40が多く出現します。

12という数字は、太陰暦による12ヶ月、一日の昼と夜がそれぞれ12時間、というように、人間にとって自然な区切りである数のようで、1ダースが12、12ダースが1グロス黄道12宮、十二支、十二単衣、十二神将など、世界中に区切りの数として12が現れています。

12は、最初の完全数6を二度繰り返した数でもありますが、「二度繰り返す」ということは出エジプト記の幕屋建設の指示と報告にあるように、宗教的には「天地」や「応答」の関係を表していて重要なことのようです。法華経にも同様の表現があります。40は、その12と、二番目の完全数28を足した値です。

日本の場合は3と8でしょう。大和三山三種の神器、八岐の大蛇、八咫烏は三本足、八重垣、八雲、大八洲(島)、八尋殿、八百万の神、八百八町、八百八橋など。

日本には「嘘の三八」と言って、お話に3と8が出てきたら、実話ではなくて喩え話や神話の類だと思え、という格言がありますが、聖書も同じです。

12人の兄弟の子孫が、それぞれ識別できる状態で独立した部族を形成し、40年かけてエジプトからカナンに向けて移動した、と読んだところで、これは実話じゃなくて物語だな、と理解しなくてはなりません。

一人の男が、40日間荒れ野で断食をして、12人の弟子を得て説教をし、死刑になって蘇って40日後昇天した、とあれば、創作神話だな、と気づかねばならないわけです。