キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

什一献金のゆくえ

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blogs.yahoo.co.jp

 

お気づきの方もおられるかと思いますが、私は以前、「クッキングホイル」と名乗って、FC2ブログで「キリスト教の問題点について考える」というブログを書いていました。記事を保存せずに終了してしまったのですが、幸い、この記事はログを取って下さった方がありまして、残っていました。今回、ほぼそのまま貼り付けて記事にさせていただきました。

 

日本ホーリネス教団東京中央教会の一信徒である野村富恵氏のサイトにある「什一献金について」という記事を引用しながら考えて見ましょう。この記事は、結論を具体的に述べていないのですが、結局什一献金は必要なのだということを言いたいようです。記事の最後に「あなたの宝のある所には、心もあるからである」 というマタイ伝の言葉を引用して締めくくっていますが、この福音書の記事を読んで「宝」即ち金だというような短絡した、キリスト教の本質からかけ離れた理解をすることが「什一献金」という馬鹿げた考えに繋がるのでしょう。

什一献金を強要する際に、必ずと言っていいほど引用されるのがマラキ書の「神のものを盗む」という表現ですが、案の定この記事でも引用されています。マラキ書の「十分の一を捧げないものは神に呪われる」という恐ろしい表現は、一体何のことなのか、簡単なことです。全収入の十分の一、ピンと来るものがありませんか、そうです、「税」なのです。旧約聖書のいわゆる「献げもの」というのは、税のことなのです。国家運営、つまり、公共インフラ整備、福祉、役人の給料などを国民の努めとして負うこと、それが「神への捧げ物」であったわけです。イスラエルに於いては三権の長がすべて「神」であった、いわゆる「神権政治」を採っていたのでそういう表現になるわけです。国の施策、公共インフラや福祉行政の恩恵には浴しているのに、国民の義務である納税を免れるようなことは許されることではない、これは当たり前のことであって、違反者は神から呪われる、即ち行政処分されますよ、ということを言っているのです。どこをどう読んでも牧師に金をめぐんでやらなければならないという意味にはなりません。

現代日本に於いては、キリスト教徒であろうとなかろうと、国税地方税は宗教機関を経ずに納められます。これで国民の義務は正常に果たされているのです。その上、なぜ教会に率の決まった納付金を納めなくてはならないのでしょうか、ここが既におかしな話なのです。

氏は同記事において更におかしな話をしています

遺失物法第4条に利益を得た物は報労金として5~20%を払うことになっていて、大方10%に落ち着くようです。ですから什一と言うのは前掲のレビ記27:30を引いて来るまでもなく当然の相場(と言う表現は適当ではないかも知れませんが)なのです。 

と言っていますが、とても「なるほど」とは言えないですね。空に遊ぶ鳥のように、野に咲くゆりのように、自由に生きよう、もう明日どうしようかと悩むな、負い目あるものに安堵と休息の日々を与えてあげよう、と発言したイエス様に従いたいと希望すると、おとしものの謝礼の相場にしたがって(税を支払った上さらに)全収入の十分の一を教会に納めなくてはならないのでしょうか。

またこうも言っています。

聖書は部分だけで読んではいけません。

 またこうも。

これは聖書を良く読まないで自分の都合の良いところだけを引用するからです。

すべてご自分のことです。聖書の表現を利用して信者から一円でも多く金を巻き上げる教会の手助けをする、大変失礼ながらあえて言わせていただきますが、あなたの失っているものは「視力」よりも「正義」です。

キリスト教徒でありながら、なぜ大昔のイスラエルの国民生活の様式に振り回されねばならないのでしょうか、パウロはこう言っています。

Ⅱテサロニキ 3:10-14 働かざるもの食うべからず。

実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい、もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。

(不可能な人は別ですが)労働して生産しないものは死んでしまえ、という意味です。イエス様がもたらした新しい契約下では、レビ人は不必要になったということです。牧師や神父などという遊びながら信者を脅迫して金をせびるような不良分子こそが、神から呪われた存在なのだということです。パウロの説明にもとづいてキリスト教というものが存在しているのだから彼の指導にしたがってもらいたいものです。パウロ本人だって自分で稼いだ金をを資本にして宣教活動を行なっているのです。信者から金を巻き上げるなんていう下品なことはしていません。返って食事や着るものの世話をしています。

一歩譲って、どうしても什一献金が必要だというのであれば、その理由を言うべきでしょう。どういう理由があって沢山献金してもらう必要があるのか、そして当然ながら収支を明らかにしなくてはなりません。誰からいくら、結果として一年間にいくら集まって、何にいくら使ったのかということです。どうせ出来損ないの牧師の息子や娘がちゃんとした学校へ入学できないことをカムフラージュするために外国のカルチャースクールへ行かせたとか、苦労知らずのカス嫁のぶくぶく膨れた指の飾り物になった程度のことでしょう。バカバカしくてやってられない結果が出てくると思いますよ。

そしてこの引用、

エスの許に来た青年も資産が多いが故に天国に入れなかったのです。「駱駝が針の穴に入るより難しい」のです。

ウソを言ってはいけませんね。その青年が天国に入れなかったとなぜ言えるのですか、見ていたのですか、そんなはずはないでしょう。あなたは嘘つきです。聖書には「あとは自分で考えなさい」という箇所が何箇所もある。それを利用して他人を脅迫する手段にする、そんなあなたは人間のクズです。あなたこそ「生まれてこなければよかったのに」と神から軽蔑されるでしょう。

そしてこれ、

70年生かして頂くとそう言う世の裏側を沢山知っています。金第一ではなく、神第一で生き、献げ物を考えたいと思います。

70年も生きてきて金の話ばかり。福音書のどこをどう読めば真実の捧げ物が什一献金だということになるのか、あなたのような「狂信者」がいるからキリスト教がカス宗教に堕落してしまったのです。

自分の能力で稼いだ金は自分で責任を持って使えばいいのです。家を建ててもよいでしょうし、趣味に費やしても良いでしょう。世の中はそうやって回っていくものだからです。それが神の業です。自分で良いと思った使い方をする、それが人間としての責任です。何か人のために使いたいがどうすればよいのかわからない場合は、国連なりユニセフなりに直接送金すれば良いのではないでしょうか。怠け者に脅し取られるよりはよほど有意義です。

什一献金に疑問を感じている人、苦しんでいる人、バカバカしいから教会へ行くのをやめてしまいなさい。そうすればずっと良い人生になります。本当の神は献金の額で人の価値を上下するような低劣な価値観の持ち主ではありません。生きていることは面白いことだな、と思える人生を。

死刑について

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www.afpbb.com 

おそらく説明するまでもなく、すでによくご承知だとは思うのですが、キリスト教徒が死刑に反対する理由は、モーセ十戒に「殺してはならない」という一文があるからです。ただそれだけの理由です。人権だの、何だのといろいろな理由を後付けしているようですが、実際には、国民が選んだ法務大臣の裁可によって、国民の払った税金が使われて死刑が行われるということは、我々自身が直接殺人に関わっていることになる。それは我々が十戒に反していることになってしまうからダメだ。反対だ、と、つまりこういう理屈で反対しているわけです。たとえばこんな感じです。

死刑制度 | 公益財団法人 日本キリスト教婦人矯風会

 

そして、死刑の代替案として、終身刑を導入せよ、と言っています。殺さないならOKでしょ、というわけですね。しかし、直接殺すか、死ぬのを待つかの違いはありますが、実質的にはどちらも死刑なのではないでしょうか。30歳で終身刑判決を受けて80歳で死亡したのであれば、彼は50年かけて死刑になったのだ、ということにはならないのでしょうか。終身刑を導入して死刑廃止、というのは詭弁にしか聞こえません。

また、聖書の神は死刑を禁止してはいません。次をご覧ください。

レビ記20:8-13

あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。子の妻と寝る者は、ふたり共に必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをしたので、その血は彼らに帰するであろう。女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。女をその母と一緒にめとるならば、これは悪事であって、彼も、女たちも火に焼かれなければならない。このような悪事をあなたがたのうちになくするためである。

禁止どころか、死刑相当の犯罪を定義して、これらに違反するものは死刑にしなさい、とはっきりそう言っていますね。

よろしいでしょうか、なぜこんなことになっているかというと、キリスト教徒は、ユダヤ教徒じゃないんだから、モーセの律法(トーラー)を細かくすべて守ろうとする必要は無くなったよ、だから、十戒のところだけ守っていればそれでいいよ、と教えてしまうからです。だから、十戒に殺すなと書いてあるから死刑はダメだ、というショートした考えが発生するわけです。十戒は、律法全体の総則に過ぎないのです。ダイジェストなのです。むしろ細かい中身のほうを読んで理解しなくてはならないわけです。トーラーを捨てるならば十戒ごと捨ててしまわなければならなかった、ということです。

 

死刑がなぜ行われるのか、現行法的にはきちんとしたロジックがあるでしょうが、法の専門家ではない私があえて意見を言うのであれば、自然法、というか、倫理的な話として、それは、まだ日本の社会が死刑を廃止できるほどに成熟していないからだ、ということになるでしょう。死刑廃止の本来の姿は、現行法では死刑の宣告を受けるほどの犯罪者が、廃止後の社会においては、定められた刑期を勤め上げた後は釈放されて社会生活を再開するチャンスを有する、ということです。

子供を残虐に殺された親が、その犯人が社会復帰して、マンションの隣の部屋に引っ越してきたときに、その現実を受け入れて彼の幸福を願うことができると思いますか? できないでしょう。だから死刑があるのです。死刑は、死刑を言い渡されるほどの犯罪を犯してしまった、その犯人のためにあるのです。今はまだあなたを受け入れる社会が整っていない。すまないが死んでもらう他に道はない。というわけです。

冤罪という問題もあります。それは理解できるのですが、冤罪をなくすという意識が重要な事柄なのであって、死刑を廃止すれば自動的に冤罪が無くなるわけではありません。別に議論すべき問題だと思います。

 

死刑執行に抗議なさっている婦人会の皆さん、あなた方も子や孫が殺されたら、「殺せ殺せ、犯罪者を死刑にしろ」と叫ぶのではないですか?

天国行きの切符を失わないためだけに死刑反対と言っているのではないですか?ちょっとよくお考えになってみてはいかがでしょうか。

「カトリックの教えの間違い」について

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purgatory | Communio

 

arinopapa.arinomamachurch.com

 

というブログ記事を見つけたのですが、案の定ただの悪口、でした。カトリックの肩を持つつもりはないのですが、ヒマつぶしにちょっと検証してみることにしましょう。

 

①司祭の結婚禁止規定

プロテストタントでもいったん牧師になった方が途中でリタイヤすることは珍しいことではありません。
しかしカトリック教会における司祭のリタイヤ率は異常であると言わなければなりません。
大体10人の同期の司祭がいたとしたら、長期にわたって司祭であり続ける人は十人中の一人か二人であると言われます。
その理由は司祭の結婚禁止規定にあります。
聖書には『後の時代になると結婚を禁止したりする』(Ⅰテモテ4:3)者たちが現れるとあります。
そのような教えは、嘘を平気で言う良心が麻痺した者たちの偽善によるものであると、聖書には書かれているのです。(Ⅰテモテ4:2)
ある人たちは「カトリックの教えを納得した上で、献身したのだから、仕方ないでしょう」と言います。
しかしそうではありません。
献身者はカトリック教会の所有物ではなく、神に献げられた献納物であるのです。
ですから間違った教えによって神のものである献身者の生涯を台無しにする権利はカトリック教会にはありません。

 内政干渉でしょうね。余計なお世話です。マタイ福音書19:12に

母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい

とあります。

みずから進んで独身を通すことは、天の国のための働きだとイエス自身が言っているのですから、この人の言い分では、テモテ書簡を利用して福音書のイエスの発言をを批判することになってしまいますね。それに司祭の独身制は禁止されてのことではありません。また、ご自分でもそう言っているように、志願者のうち、最後まで目的を達するものが100%で無いのはどの世界でも同じです。その割合が低すぎて異常だと言いたいのであれば、具体的な根拠を示すべきでしょう。

それに、プロテスタントにも修道会はあります。女子修道会ですが、生涯を通して独身を貫き、神に捧げようとすることは同じでしょう。当然、こちらにも脱落者はあるでしょうね。

www.kanaan.org

 

②マリア崇拝
マリア崇拝ぐらい、真のキリスト信仰に反するものはありません。
この教えをどうしたら、良心に反しないで受け入れることが出来るのか見当がつきません。
マリア崇拝の起源は、教会が宣教をしやすくするために宣教地の女神崇拝に妥協してキリスト信仰の中に女神信仰を取り込んだのが始まりです。
それを徹底的に批判したのがネストリウスでした。
ネストリウスにも批判されなければならない点が多くあったため、両者の争いは泥仕合になりました。
問題を多く抱え込んでいる者同士で争って、片方が勝利し、片方は異端宣告を受けました。
そして女神崇拝という偶像礼拝はカトリックの中に定着しました。
教会会議でネストリウスに異端宣告がなされたのが431年です。
1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。
その間、大多数のキリスト教徒は間違った教えの闇に閉じ込められていたのです。

「真のユダヤ教」として正しくない、というのであればわかりますが、キリスト教という以上、キリストを産んだ母は神の母である、としてマリアを崇敬することこそ、キリスト教の核を成す重要な要素であると言えるでしょう。はっきり言えば、地母神崇拝を捨てきれなかったローマ市民の本音が反映された結果なのです。そのことを理解できない者は「キリスト教徒」たり得ない、ということです。モグリのニセクリスチャンなのです。

それから「1517年にルターがカトリック教会への抗議行動を起こすまでに1086年の月日がたっているのです。」なんて言ってますけど、ルター教会はマリアを「神の母」と認め、聖堂にマリア像を安置して崇敬しているのですよ。

 

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ルーテル教会の聖人崇敬

 

次の動画は、ドイツのルーテル教会で、マニフィカト(聖母賛歌)が唱えられている様子です。祭壇が東面式で、対面式に変更したカトリックよりも、古い様式を守っていることがわかります。


Magnificat (Lobgesang der Maria)

 

 

③煉獄(れんごく)の教理
人間が神から離れるとき真っ先に行うのがオリジナル宗教の創作です。
聖書のどこにもない煉獄というものを創作し、自身のオリジナルの宗教を作り上げます。
プロテストタント・リベラル派も万人救済主義というオリジナルを作り上げました。
近頃は福音派さえもセカンドチャンス論という福音派版の煉獄の教理を作り上げました。
これは言うまでもなく、聖書のどこにもない教えを人間が創作したものです。
自分が死んだ後に神様と会わなければならないとき、聖書にない教えを水戸黄門の印籠(いんろう)のように神に向かって「この教えが目に入らぬか。この教えこそは煉獄・万人救済・セカンドチャンス論である!」とでも叫ぶつもりなのでしょうか。
神様の御前で通用するのは、神の御言葉である聖書の言葉だけです。
なぜそんな当たり前のことが分からないのか不思議でなりません。

プロテスタント教会であっても、会員が死亡すれば葬式を行いますが、人が死ぬと、生前の成績如何によって、天国か地獄に振り分けられる。他の人がどう願おうが望もうが決定された行き先は一切変更されない。そう理解しているのであれば、なぜ葬式を行うのでしょうか。人が死ねば、のこされたものが死者にできることは何もない、そう考えているのであれば、行政手続きを済ませて、遺体は法に従って処分すれば良いだけの話です。違うでしょうか。なんとか神に念を送って故人の冥福に関与したい、そう思っているから葬式をするわけです。煉獄的な発想は人間の自然な感情に組み込まれているのですよ。

 煉獄が無いことが聖書的に当たり前だというのなら、聖書的に天国と地獄は実在することを証明しなくてはならないでしょうね。聖書のどこに、人間は死んだあと天国か地獄のどちらかに行きますよ、と説明されているのでしょうか。どうせ妄想ならいろいろオプションがあったほうが面白いじゃないですか。

 

④避妊の禁止

エホバの証人は輸血を禁止します。
モルモン教徒は子だくさんの家庭が多いです。
このどれもが聖書の教えにもとづいていると主張します。
しかし聖書に当たってみると、引用されている聖句はそんなことは少しも言っていないのです。
カトリックの避妊禁止の教えぐらい守られていない教えも珍しいかもしれません。
しかしこれが良心的カトリック教徒の人権を侵害していることは明らかです。
避妊をする・しないは個人の自由にまかせられるべき領域であり、何人(なんぴと)も侵害してはなりません。
聖書さえも、そのことに口出しをしてはいないのですから。

あえて 聖書本位的に言うのであれば、性行為は子供を作るための行為であって、それ以外、たとえば欲情を満たすためだけであってはならない、ということになるでしょうね。したがって、避妊はアンチキリスト的行い、ということになるでしょう。

とはいえ、エッチをしたい、という要求に抗えないときもあるでしょう。神様がそのように作ったわけですからね(笑)。カトリックは避妊を全面的に禁止しているわけではありません。オギノ式ならOKです。これマジすよ。

 

⑤教会を聖書より上位に置く

今まで見て来たカトリックの教えの間違いは、同じ出所(でどころ)から出発しています。
それは教会会議を聖書より上位に置くということです。
このことを正当化するのにカトリックはレトリックを用います。
それは聖書を編纂したのは教会であるのだから、教会が聖書と違ったことを教えても良いという主張です。
しかしこれは故意に大事な一点を見逃しております。
それは聖書は教会が編纂したから聖書に「なった」のではなく、元々聖書と認められていたものを、教会が聖書として追認したというのに過ぎないということです。

◎確かに教会は真理の保持者です。
しかしそのためには教会は聖書に従うものでなければなりません。
それだけが教会が真理を失わないでいることが出来る唯一の道なのです。

 完全に聖書だけ、と主張したいのなら、説教なんて危険な行為は一切できなくなりますよね。聖書にはこう書いてあるけど、実際にはこういう意味なんだよ、と説明して、それが間違っていたらどうしますか?プロテスタントだって、聖書の解き明かしを行うのは教会だと言っているのです。つまり「教会を聖書より上位に置いている」のですよ。

 

ツイッター見てると、一時間おきに雀の話しているヒマそうな神父がいますけど、ああいうの見てると幸せそうでよかったね、と思いますけどね(笑)。

それにしても、今までキリスト教徒が他の教派の悪口を言っているのを聞いて、なるほどな、と感じたことは一度もありませんね。

キリスト教のやめ方

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RAPT | カルトとは教団のトップが私腹を肥やす宗教、または組織や団体のことである。

 

穏便と思われている教会にも、カルト化する恐れがゼロではありません。日本の神道であっても、戦争の道具として利用された過去があります。

www.jscpr.org

というサイトから「カルト問題Q&A」の一部を引用してみましょう

もしも何かよくわからないけどちょっと興味ある団体活動に誘われたならば、その団体の実態をよく調べないといけません。それはカルトかも知れないからです。ここにカルト問題についての基礎知識と、とりあえずの対策について、よくある質問に回答します。

Q1 カルトとはどういう団体なのですか?

カルトは人権侵害の組織です。組織に依存させて活動させるために、個人の自由を極端に制限します。つまり、全体主義的集団です。そして、①各メンバーの私生活を剥奪して、②集団活動に埋没させる。そして、③メンバーからの批判はもちろんのこと外部からの批判も封鎖し、④組織やリーダへの絶対服従を強いるといった特徴がみられますが、これらの特徴は表面的には隠されていますので、集団の外部から見ても区別がつかないことがふつうです。カルトは、こうした人権侵害の正体を隠すためにマインド・コントロールを用いることが多いです。

Q2 マインド・コントロールとは何でしょうか。

つまり心理操作ですが、基本的に情報を操作して、個人の抱く①自己観、②理想とする自分、家庭、社会、世界の見方、③人生の目標、④非科学的な自然や宇宙の因果法則や歴史観、⑤善悪や正誤の基準となる情報源などが歪められて、今の社会を否定して見きってしまうように仕向けられます。 

いかがでしょうか。あなたが通っている教会はカルトではありませんか?私は、非カルトの教会は皆無だと思っています。また、マインドコントロール無しで成立するキリスト教の教義は存在しないと考えています。

教会へ行くのなんてやめてしまいたい。そう思える今のうちであればまだ間に合います。あなたが加害者になってしまわない今、止めることを勧めます。

止めろって言うけど、どうすればいの?と思われた方、行かなければいいだけです。宗教を止めるときには退会手続きをしなければならない、という法律はありません。ただ、いかなければいいだけです。しかし、執拗な呼び戻しや、酷ければ脅迫のようなことをされる懸念がある、という場合は、弁護士や行政書士のような法律の専門家に依頼して、「脱退届け」のような書類を作成してもらうのも良いかもしれません。

 

このサイトには、自分で脱退届を作成する場合のサンプルがあります。 

www.naiyo-shoumei.net

 

 私の経験から幾つかアドバイスするとしたら、まず私の場合は、ただ行かなくなっただけです。家族親戚揃ってキリスト教徒だったのですが、どちらかといえば、教会なんて大事な祝日に出席すればいいだけで、毎週日曜ごとに行くようなところではない、という考えの人がほとんどで、なぜ行かないんだ、という話にはなりませんでしたので、比較的楽に止めることができています。

聖書は宗教授業用のものやら卒業記念やら、たくさんあったのですが、参考資料用に一冊を残して、あとは全部新聞雑誌ゴミに出しました。中身は全部同じ口語訳でたくさんあっても仕方がありませんからね。残したのは共同訳の外典つきで、新旧約が合冊になったものです。聖書を読んでみることは、洗脳から抜け出すためにはマイナスにはなりません。一体、これには何が書かれているのだろうか、と批判的に読んで見ることは有益なことです。

絶対にやってはいけないこと、別の宗教ならOKだろう、と思って他の教会へ行く、お寺へ行く、新興宗教へ行く、これは絶対にダメです。同じことを繰り返すだけの話です。そういう私も、止めた直後は、改革派の教会を覗いたり、浄土宗のお寺のお勤めを見学してみたりしました。何かの宗教に所属していなければならないような気がしたからです。しかし、今ではそんなことは全く無いと気づいています。宗教なんてただの装飾にすぎません。本当に神がいるのなら、宗教なんて馬鹿なことはやめてしまいなさい、と言うでしょう。

受けた洗礼 はどうなるの?と気にする人がいますが、そんなことは全くどうでも良いことです。洗礼を受けたからといって、身体的に何か変化するわけでも何でもありません。「死ぬまで続けろよ」という暗示に過ぎないのです。また、教会の名簿に名前が残る、ということを気にする人もいますが、それもどうでも良いことです。何かの社会運動に賛同して署名したとして、あとになって反対意見に転じたからといって署名を取り消してくれ、と頼んでもそうしてはもらえませんよね。同じことです。うっかりしていたにせよ、一度は賛同して参加してしまったことは、あなたにも責任があります。名簿に名前がのこってしまうのは仕方がないこと。諦めましょう。そんなことよりも、二度と関わり合いにならない、という決心が重要です。

 

過去の記事

christian-unabridged-dict.hatenablog.com

にも書きましたが、信者が一生の間に教会へ垂れ流す金額は、少なく見積もっても2000万円近くです。馬鹿げているとは思いませんか?金をドブへ捨てるとはまさにこのことです。

 しかし、そう簡単にはいかないよ、という方もおられるかもしれません。親族や友人が絡んでいる場合などは難しくなるでしょう。「絶対にもどらない」という決心が必要になりますね。何が何でも絶対に、と決心して下さい。必要なら警察を呼んででも止める。その決心が必要です。

宗教という迷妄から抜け出して、本当に人間らしい生活に戻られますようにと願っています。

罪の基準

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www.catholicnewsagency.com

 

デュポン神父の説教部屋第4回「私の罪は赦されますか?」

というサイトに、次のような記述があります。

キリスト教でいう「罪人」というのは、法律でいう「犯罪人」とは全く別の意味合いを含んでいます。犯罪というのが法律違反の行為で、社会に対して責任を問われるのに対して、キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。もちろん、場合によっては社会に対しても責任を問われることでしょう。

言葉尻を捕まえるようですが、この書き方だと、法律では裁かれる犯罪であっても、キリスト教としては罪では無い場合もある、と読めてしまいますね。

キリスト教と実社会に関連性は無く、それぞれ全く別のものだ、と言いたいのでしょう。それならキリスト教なんて社会では何の役にも立たないどころか、公序良俗に反する不清潔な思想だ、ということになってしまいますが、実際その通りだと思います。

 

また、次の記述、

たとえを持って考えてみましょう。泥棒はいつから泥棒でしょうか。他人の物を盗ったときからですか。あるいは盗ろうと決心したときからですか。明らかに盗ろうと決めたときからです。実行する前の計画や場所の下見などの段階では法律上では泥棒ではありませんが、しかし、良心の前ではあるいは神の御前では泥棒です。人の物を盗る行為をしていないので、法律上は「犯罪人」ではありませんが、心の内ではもう罪を犯した「罪人」なのです。

実行を決心した時点から犯罪である、ということは、キリスト教であろうがなかろうが変わりません。それが裁かれるかどうかの基準が法律と宗教の間で差がある、ということであって、盗みたい、というような考えが「悪いこと」であることに違いは無いはずです。悪いことをしたい、と望むことは「罪」である。これが常識というものです。実際、計画しただけで裁かれる、というように法律が変更されるかもしれない(2017年9月24日現在)、ということは周知の通りです。裁かれる行為の基準は常に変更される可能性があるわけです。

 

私が教会で習った「宗教的な罪」とは、まずもって一般社会の罪、つまり日本の法を侵すこと、次に、イエス様の教えに背くこと、でした。

福音書にあるイエス様の教えより日本の法を優先させる、という意味ではありません。現実世界には、すでに神の恵みが展開されているはずだ、と考えているわけです。まだしも少しマシな考え方だったと思いますが、じゃあ北朝鮮もか、ということになりますよね。この考え一つですべて丸く説明しきれるかというと、そうでは無いわけです。

まあ、少なくとも「今の世界は悪魔が支配している」というようなことを真剣に主張する教会よりはマシでしょう。

 

モーセの律法とは、イスラエルという国家の法律だったわけです。イスラエルには、モーセの律法以外の通常法があって、解釈の基準が異なっていた、ということではありません。モーセの律法によってのみ裁判が行われていたのです。イスラエルの国民にとって、モーセから伝わったものは、宗教ではなくて、法律であり行政であった、神すなわち法律そのものなのであって、法律上の罪と宗教上の罪に差はなかったのだということです。現在の日本には、しっかりとした法律が整備されているのですから、さらに法律の象徴である宗教は不必要だということになります。

 

福音書でイエスは次のように言っています。

マタイ福音書 5:17-20

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

この発言は、新約になったからと言って、律法が無効になったわけではない、かえって効力が強まった、と言っているのだとしか思えないですよね。

つまり、律法に「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」とあるのですから、同性愛者を見つけたら、キリスト教徒の努めとしては、その場で同性愛者を殺してしまわなければならない、ということになります。「その血は彼らに帰するであろう」の意味は、「殺しても律法の「殺すな」には該当しないよ。悪いのは同性愛者だから。」ということです。日本の法律では裁かれるかもしれませんが、それはまあ仕方のないことですね。

エスは、イスラエル国民はイスラエルの法律をきちんと守りなさい、と、言っているだけなのです。そこへ、むりやり宗教を被せようとするから矛盾が生じるわけです。

いかがでしょうか。日本には日本の法がある。そこへ異国の古ボケた法体系を当てはめようとするには無理がある。だから「キリスト教でいう罪とは、もっと内面的な行為、あるいは状態を意味していて、いわば神に対して責任を問われる行為であると言えましょう。」というようなトンチカンなことを言わざるを得なくなってしまうのです。

キリスト教というのは、非プラクティカルなママゴト思想でしかない、ということです。

 

ロヒンギャ

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www.mediaislam.org

 

「まるで野菜を切り刻むかのように、仏教徒は我々を殺しに来た」

報道番組で、難を逃れたロヒンギャがこのように言っていました。

 

私は、宗教の中では、仏教が一番マシだと思っていました。このような事案があったとしても、思想そのものについては少なくともキリスト教よりは優れているという見方に変わりはありません。

しかし、美味なる果実であっても、汚染された器で供されたものは、結局は毒です。宗教は毒になりやすい。

宗教なんぞには滅多矢鱈と手をだすべきではありません。不必要だからです。止むにやまれずイスラームであるもの、仏教徒であるもの、そしてその故に迫害されるもの、迫害しなければならない、と思い込むものの悲哀に思いを致すことができるのですか?

約束の地

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www.flickeringmyth.com

 

旧約聖書の預言が、最終的に実現された結果である、と、キリスト教は自分たちをそのように考えているようです。

しかし、本当にそうなのであれば、何よりもまず、ユダヤ教の主流がそれを認めなくては意味がありません。ユダヤ教は、神とは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、イスラエルの民をエジプトから乳と蜜の流れる約束の国へ導き上らせる、という約束があり、そのために「十戒」を示された方なのだと理解していて、その理解の根拠は聖書に記されている、というわけです、キリスト教はそれをユダヤ教から借用しているのですから、ユダヤ教が納得できる説明をして、初めて意味を成すわけです。それができないなら借用ではなく無断盗用と言わねばなりません。

ユダヤ人の聖書である旧約聖書には、ペリシテ(パレスチナ)やモアブ人のように死後を重要視する偶像崇拝に陥ってはならない、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は生きているものの神だと記されています。

ああ、あの契約ね、あれ、古くて時代遅れになったからさ、別の契約に書き換えようよ。と、神自身がそう言ったと、これがキリスト教の言い分です。

神は完全なるものなのですから、一度交わした約束は絶対のはずです。仮に、神が二段階に分割して契約を小出しにしたというのであれば、それは、「ユダヤ教徒に納得のいく形で」預言者を通してその理由が述べられなければならない、ということです。

「お前らが納得しないなら、見てろ、イエスはただの預言者じゃないんだぞ、いいか「神」だぞ「神」。まいったか、おどろいたか、認めろよ、バカ。この糞ユダヤ人が」

そんなこと言われてもユダヤ側としては苦笑するほか無いわけですが、実際には、このようにしてユダヤ人差別が始まったわけです。キリスト教のみせかけの価値を高めるため、アレクサンドリア図書館を破壊し、科学者を惨殺し、ユダヤ人を抹殺しようとする、キリスト教とはそのような卑怯で狡猾な人物の駄集合なのです。

旧約聖書は認めるが、書き手がアホだったから、ちゃんと書けてないわけ。だから書き直したよ。それがコーランだよ。というイスラームの主張のほうがずっとまともだと思います。

キリスト教の主張が正しいなら、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエスキリストの神」、と神の修飾が修正され、ユダヤ教の聖書自体にそのことが加筆され、「キリスト教」のような陳腐な新興宗教は発生しなかったはずだと思います。

約束の地であるイスラエル国家は地上の教会に、乳と蜜の流れる楽園は、天上の教会、すなわち天国にすり替えられましたが、よく考えてみてください。これは旧約聖書で神が強く非難した、モアブやペリシテ人が行っている偶像崇拝、死後に望みを置く消極的な生き方、そのものではないでしょうか。

ユダヤ人は認めないが、実際はユダヤ教の展開後の宗教だ、なんてことはあり得ません。キリスト教とは、ローマの支配下にあった、イスラエルに渦巻いていた新メシア(強い政治力をもった指導者のこと)待望の機運を利用して勃興した、行き当たりばったりのテロ宗教に過ぎなかったのです。今でいうISですね。2000年前には、キリスト教が「愛」などと言ったら、バカなことを言うな、と叱られたでしょうが、2000年後にISが国際宗教に成長したときには、暴力性が排除されて「神は愛」なんて言ってるかもしれません。