キリスト教の問題点について考える

キリスト教の問題点について考える

伝統的教派プロテスタント信徒が運営するキリスト教批判ブログです

クリスチャンは悪霊払い?

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www.travisagnew.org

 

マルコ福音書の終わりに、次のような記述があります。

 

マルコ福音書 16:17-18

信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

 

キリスト教徒になればだれでもスーパーマンになれるぞ、と唆しているのでしょうか。冒頭で紹介したサイトによれば、蛇担当牧師なるものがいて、実際やらかしてみたところ、噛まれて死んだというのですから笑い事ではありません。

 

でも福音書に書いてあるじゃない。ってことになりますよね。福音書に書いてあるからその通りだ、という考え方もどうかとは思いますが、思い出して頂きたいことは、イエスは、私が喩えで説明する理由は、と言って、あなた方には解りやすいように喩えでお話をしますよ、と言っていることです。さあ、これから喩え話で説明しますよ、と言っている箇所だけが喩え話ではありません。こういう箇所こそが喩えなのです。どういう意味でしょうか、直接の意味に直してみましょう。

(信じる者には、このようなしるしが伴う。)
今まで私(イエス)の話を聞いてきて、理解したのであれば、

(すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、)
あなた方自身の内に潜んでいる偏見や迷妄を打ち捨てて、

(新しい言葉を語り、)
新しい、真実の価値観を自他に求めることができるようになるだろう。

(へびをつかむであろう。)
自己に潜む邪悪性に振り回されず、逆にコントロールすることができるようになるだろう。

(また、毒を飲んでも、決して害を受けない。)
友人の偏見や迷妄にも巻き込まれない強い心を持てるようになって、

(病人に手をおけば、いやされる」)
その病の克服のため、友人と苦しみを共にする努力を惜しむな。

私を信じれば超能力が生じて悪霊祓師にも魔法使いにもなれますよ、というような幼稚なことを言っているわけではないのです。しかし、冒頭でご紹介したサイトにあるように、福音書に書いてあるのだから、へびをつかんでも平気のはずだと言って、実際にやって死んでしまう。これがキリスト教会による聖書理解です。

 

お前らは頭が悪いからじかに説明するよりも喩えで言ってやろう。こう言われているにも関わらず、福音書のこの箇所を読んで、あいつには悪霊が憑いているから俺が祓ってやろう、と考えちゃうタイプの人は、まず、毒を飲んでも死なないことを確認してみてはいかがでしょうかね。

 

献金

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breakopenword.blogspot.jp

 

キリスト教徒は一生のうち、一体いくらぐらい教会に献金するのでしょうか。試しに計算してみましょう。

 

ここでは簡単のため、就職してから死ぬまでの間、60年間に支払った額を計算します。

 

  • 月額献金 1万円x12x60=720万円
  • クリスマス特別献金 2万円x60=120万円
  • イースター特別献金 2万円x60=120万円
  • 感謝祭特別献金 1万円x60=60万円
  • 席上献金 1000円x4x12x60=288万円
  • 会堂費 10000x60=60万円
  • 交通費 2000x4x12x60=576万円
  • 合計 1944万円

一生に支払う金額は1944万円でした。什一献金などという教会であればもっと多いでしょうが、この金額はおそらく平均よりも少なめの見積もりだと思います。子供や妻を考えに入れるともっと増えるでしょう。

 

什一献金というのは、上記の「月額献金」について、税込み収入額の10分の1支払いなさい、ということであって、その他の献金はその上さらに、ということになります。

 

その他にも、聖餐式には聖餐感謝献金、神学生養成援助献金、夏季、冬季特別献金、建物が古ければその維持費、それに光熱費は別に徴収される場合もあり、礼拝後の食事材料費、子供に配るお菓子の代金、カトリックや正教の場合、法事があれば(正教は毎月、カトリックは年一度)法事謝礼など、ということになるでしょう。

 

本人が本人のために「宝を天に積む」つもりで支払っているわけですから、外から文句を言うつもりはありませんが、まあ捨て金ですね。何か買い物したほうがよほど社会に貢献するでしょうし、他人のために役立てたいというのなら、赤十字へ送金すれば役立ててくれるでしょう。本当に神が存在するのなら、教会に無駄金払って遊んでいるより、よほど評価するでしょうね。

ヒュパティア

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www.rogerebert.com

 

アレクサンドリアという映画が公開されたのは2009年ですから、このブログをご訪問下さる方の中にはご覧になった方もおられると思います。

アレクサンドリア (映画) - Wikipedia

西暦4世紀、キリスト教が定着し異教の排斥が行なわれ始めた時代の、女性天文学ヒュパティアの学問に殉じた半生をアレクサンドリアを舞台に描く。天動説に疑問を感じ、何らかの地動説を肯定できる理由を模索し続けた彼女は、弟子のオレステスや奴隷のダオスに愛慕を受けるが、それを拒み研究に没頭してゆく。その一方でキリスト教徒は、自らの宗教の絶対性を民衆に訴え、古来の神々を愚弄する。ヒュパティアの父テオンらはこれに憤り、剣を抜いて応戦するも退けられ、クリスチャンである皇帝は異教徒の一方的な罪を宣告する。アレクサンドリアの大図書館は異教の魔窟として破壊され、異教徒には改宗か出国しか道は残されなかった。その中で改宗を拒み、青年たちに学問を教え続けるヒュパティアは、都の人々から魔女とみなされる。

 

だんだんと勢力を増し、ミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマの国教となっていく激動の時代に於けるキリスト教の実態をテーマに作成された映画です。

 

映画ではキリスト教徒が悪役であって「暴徒」のように描かれています。「アレルヤ!」と叫びながら異教徒である天文学者を惨殺し、町々を破壊し、傍若無人に悪行の限りをつくす様は、現代のイスラム国の蛮行を彷彿とさせます。

 

さて、この頃教会は存在したのでしょうか。映画の主人公ヒュパティアキリスト教徒に惨殺されたのは415年でしたが、ローマ帝国が国教をキリスト教に定めたのは392年ですから、教会は存在したのです。多くの人は、原初キリスト教ローマカトリック教会だと考えているようですが、違います。最も原初には、今で言えば正教会だけが存在しました。五大総主教区(ペンタルキア)というものがあって、ローマはその一つに過ぎなかったのです。この映画に出てくるアレキサンドリアも総主教区の一つであって、ローマとアレクサンドリアの総主教にはパーパというタイトルが尊称として与えられていましたが、総主教区に実質上の優劣はなく、すべての総主教区は同等であった、ということです。現在もこの伝統は受け継がれており、数は5つだけではなくてもっと増えていますが、いずれの総主教も優位性を主張しない、という伝統はそのままです。ですので、使徒の長であるペトロの後継者を主張するカトリック教会(正教会からみればローマの総主教区)は異端的反逆者であって、同じコミュニオンには受け入れがたい存在である、というわけです。すなわち、客観的にみて、カトリック教会は正教の伝統から逸脱した離反者だという観察が正となります。1054年のローマ総主教とコンスタンティノポリの総主教の相互破門事件を持って東西大分裂(大シスマ)となったという説明がほとんどですが、これは総主教同士の個人的な破門でしたので、決定的な出来事ではありませんでした。実際には、395年にローマ帝国が東西に分裂したこと、476年に西ローマ帝国が滅んだこと、また、後に起こる十字軍問題などが相まって、徐々に分裂していった、ということなのでしょう。詳しくは 東西教会の分裂 - Wikipedia を御覧ください。

 

さて、キリスト教にとって都合の悪い存在であった女天文学者ヒュパティアを殺すように、また、キリスト教の教義が捏造である、という都合の悪い証拠資料が山のように存在するアレクサンドリア図書館を破壊するように命令を出したのは、正教会の指導者であるアレクサンドリア総主教のキュリスという人物でした。この人物は現状、正教会カトリック聖公会、ルター教会において「聖人」として崇められています。

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アレクサンドリアのキュリロス - Wikipedia

 

Wikiによればヒュパティアはカキの貝殻で生きたまま肉を骨から削ぎ落とされて殺害された、とありますね。そんな殺し方がありますか?そんな残酷なことができますか?一体どこから削ぎ落として行ったのでしょうか。乳房?性器?眼球でしょうか。恐ろしい話ですね。まさに狂信者。キリスト教のDNAにはそれが組み込まれているのでしょうか。

 

このブログで主張していることは西方教会の話だから正教会は無罪だと言ってくる正教徒がいますが、私に言わせればキリスト教なんてどれもこれも同じ。目くそ鼻くそ、似たようなものです。正教であろうがエホバの証人であろうが同じような詐欺師の集まりでしょう。違うというのであれば天国の写真でも撮ってきて見せてください。

神殿の幕

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www.haaretz.com

 

福音書には、イエス様が十字架で亡くなったときに、エルサレム神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた、と記述されています。見てみましょう

マルコ福音書 15:37-38

エスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

神殿の幕とは、上の写真にあるように、神殿の至聖所(写真奥)と聖所(写真手前)を仕切るための幕のことです。何のために仕切るかというと、至聖所には神が臨在しているのですが、人間は直接神を見ると死んでしまいますので、神を見ないように幕で仕切ってあるということです。次の記述に拠るところです。

 出エジプト記26:31-33

また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。
そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。
その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。

至聖所へは、年に一度だけ、ユダヤ暦の第七の月の10日、贖罪日に、その年の大祭司だけが入ることができました。その際、大祭司が神を見てしまわないように、香の煙を満たした、とされています。また、うっかり失敗をして、神に打たれて死んでしまったときに聖所にいる祭司たちがそれを知ることができるように、大祭司の祭服の裾には鈴がついていて、もし至聖所内で大祭司が死んだときには、外から死体を引き出すことができるように、腰に紐を巻いてその端を聖所へ出すようにしていたのだそうです。

フランシスコ会訳 出エジプト記 28:31-35

おまえはエフォドの下に着る衣を青糸だけでつくる。そのまん中に頭を出 すための穴をもうけ、それが裂けないように穴のまわりをみみ織り細工とし、皮よろいの穴のようにする。衣のすそのまわりには、青糸、深紅の糸、まっかな糸でよったざくろをつくり、金の鈴もそのまわりにつけて、ざくろと交互になるようにする。すなわち衣のすそのまわりは、金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、というようにする。アロンは務めをするとき、これを着なければならない。これは、かれが聖所にはいってヤーウェのみまえに行くとき、また出るとき、その音が聞こえ、かれが死なないためである。

メソポタミア神話に、敷居をまたぐときには何か音を出しながらでなければ、悪い精霊が飛びかかってその人を殺してしまう、という迷信があって、そのことを言っているのだ、という説明(下記のフランシスコ会訳聖書の脚注)もあって、その内容から、旧約聖書が現状に編集されたのはバビロン捕囚の終焉(BC537)以降であることがわかります

上記引用箇所に対応する脚注

「鈴」の音がアロンを死から守るという考えは、 悪霊が聖所の戸口にひそみ(創4とその注4参照)、音のない状態でそのしきいをまたぐ者にはとびかかるという 古代一般に信じられていた考えに由来するものらしい。 

フランシスコ会訳 創世記 4:6-7

そこでヤーウェはカインに言われた、「おまえはなぜおこるのか。どうして顔を伏せるのか。 おまえが正しければ、顔を上げればよいではないか。おまえが正しくなければ、罪が戸口で待ちかまえているようなものではないか。それはおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」 

 この箇所に対する注

本節の大体の意味ははっきりしている。すなわちカインの心の中にはいりこもうとしている邪念(アベルを殺そうという悪い考え)を制するようにと神がカインに警告しているのである(ヨハネ一書3:12参照)。直訳では、「おまえがよくすれば、『上げること』ではないか。しかしおまえがよくしなければ、罪は戸口に伏しているものではないか。それ(伏しているもの)はおまえを慕うが、おまえはそれをおさえなければならない」。「上げることではないか」を「おまえ(とその供え物)はよみされるではないか」の意味に解する者も多いが、本訳のほうが適当と思われる。「伏しているもの」は文法上から見れば分詞(創世記に用いられている他の箇所は29:2 49:14 25)で、男性(「ロベツ」)であるが、この語に関連している名詞「罪」は女性である。おそらく著者の考えが罪の象徴として一般によく知られていたある男性名詞に移ったのであろう。したがってそのあとに続く「それ」は女性ではなく男性となっている。著者が3:24で神の使いを描くにあたってバビロニアの「カリブ」の姿を借りて表現したように(3注12参照)、ここにはじめてしるされた「罪」というものの本性、すなわち人の心にはいりこもうとするものであることを描くために、ここではアッカド人の考える悪鬼「ラビツ」(ロベツと子音は同じ)の姿を借りたものと思われる。この「ラビツ」は家の中にはいりこもうとして戸口のところですきをうかがっている野獣のように伏したものと、当時一般に信じられていた。ペトロ一書5:8で悪魔が「しし」と呼ばれている。

 

さて、それでは福音書の神殿の幕が裂けた、という記述にはどのような意味が含まれていると考えるべきでしょうか。ネット上から探して引用してみましょう。

イエスの死 - 牧師の書斎

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた「天的現実の地的な現われ」と言えます。つまり、イエスの死によって、天にあるまことの聖所への道が開かれたことを意味します。この幕は至聖所と聖所を隔てている幕のことです。この幕が上から引き裂かれたということは、神がそれを引き裂いたことを意味します。人間が引き裂く場合には、下から上にということになるでしょう。しかしここで神の主権によって隔ての幕が引き裂かれ、人は自由に至聖所に行く道が開かれたことを意味します。つまり、イエスの流された血潮によって、私たちはいつでも神との親しい交わりが可能となったという天的事実のあかしです。

探せば他にも見つかりますが、どれもだいたい同じようなことを言っています。しかし、福音書には、十字架上での死と、よみがえりが別々に記述されているのですから、「天にあるまことの聖所への道が開かれた」と言うのであれば、そのタイミングはよみがえりのときであるはずです。物事の本質を探ろとしているのではなくて、現状の理解に記述の意味を貼り付けようとしかしないから、このような辻褄の合わない説明になるのでしょうね。それに「上から下まで」は裂かれた順序ではなくて、結果としての状態を表現しているだけだと思いますよ。

裂けた幕の意味は、神が臨在しているはずの至聖所が丸見えになったが、何もいなかったし誰一人死ななかった、という事実の告発です。神なんて本当はいないんですよ、ということを教えているわけです。

つまり、宗教によって民衆をコントロールする時代は終わった、ということなのでしょう。福音とは、宗教からの解放を示唆する言葉だと思います。復活は新しい人間性、宗教に振り回されない人間の本質的な価値観の蘇生を意味したわけです。

 宗教を否定し、人間性の復活を述べ伝えたのに、新しい宗教という病原にしかならなかった。実に陳腐で滑稽な結果です。案の定、正教だ、カトリックだ、プロテスタントだといって争っているようです。

東京サレジオ学園への手紙

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Don Bosco Our Inspiration – Yarforum

 

東京サレジオ学園への手紙 というサイトがあります。上の肖像画はイタリア人司祭「ヨハネ・ボスコ」という人物ですが、この人が設立した修道会がサレジオ会で、東京サレジオ学園は、サレジオ会が経営する養護施設です。

 

東京サレジオ学園への手紙を書いた人は、この養護施設の出身者であって、施設で育った9年間の間に、担当の神父から受けた性的虐待について記されています。一部引用しましょう。

小学4年生から、たぶん5年生までのあいだ、 T・M神父から性行為を強要された記憶が、イメージだけでなく、感覚、感情も含め、 すべての記憶が戻ってきました。 当時の神父の言葉、身体に受ける刺激、手や身体などで性行為を強制される感覚。 心が当時に戻り、再度、その場面を体験しているかのようでした。 それがフラッシュバックと呼ばれる現象であることを知ったのかなり後でした。

  この記憶は、ずっと私の脳裏につきまとい、いつまでも離れませんでした。 仕事をしていても、電車に乗っても、子どもと接していても、この映像や感覚が流れ込み、渦巻き、 取り憑かれるようになりました。思わず大声を出したり、逃げだそうとしたり、 まともに生活をすることが困難になりました。性虐待の記憶がよみがえったことなど、 誰にも相談することはできず、1人で悶々としていました。 再び、死ぬことばかりを考えるようになりました。

 

いかがでしょうか、キリスト教は人に幸福をもたらしますか? 逆ですよね。人に苦痛と憎しみを与え、人生を破壊してしまう危険な遊戯なのです。もう少し引用を続けます。

 

記憶の回復は、まだ続いていました。フラッシュバックは、安心しているときに、突然やってきました。 昨年は、 T・M神父の部屋にいた別の男の子を思いだしました。

その男の子は、小学5年から中学3年の卒園まで、私がずっと憎み続けていた男の子でした。 記憶を亡くしたにも関わらず、その子を憎み続け、仲良くすることが出来ませんでした。 いま思えば、同じ被害者でありながら、嫉妬していたのでしょう。 被害者同士が憎しみあう、まるで地獄絵図の世界です。

  親のいない子ども、ぬくもりを知らない子どもにとっては、性虐待ですら、数少 ないぬくもりとして受け入れていたのだと思います。 人恋しく大人を求める子どもの気持ちを、おのれの性的欲求のために利用する。 しかも、信者である子どもに対し、絶対的な指導者であり、子どもを育み守るべき神父が、 子どもたちを陵辱する。それも、何人もの子どもを、何年間にも渡って。

 

虐待であってもぬくもりだったと回想して告白する。この人が言うように、それはまさに地獄絵図ですね。

これはキリスト教の単なる特殊な一局面ではないと思います。このような性質は、キリスト教の根幹をなす基本的な構造だと言えると思います。

 

祈り

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www.desiringgod.org

 

祈りとは何でしょうか。おそらくは神にお願いをすること、ということになるでしょう。世の中が平和であるように、今日一日が恵まれた日であるように、などと願う。これが祈りです。

 

では、何のためにそう願うのでしょうか。願えばその願いが叶えられるのでしょうか。キリスト教の教義的な答えはノーです。なぜなら、神の意思(予定)は人の願いより勝っていて、すでにすべて完了しているからです。人間は、神の業の成果の途中経過を観察させられているだけのことであって、いまさら何を願おうが、結果を覆すことはできない、ということなのです。

 

しかし、イエス福音書で祈るならこう祈れ、と言って主の祈りを教えています。みてみましょう。

 

マタイ福音書6:5-13

また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、
きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。

 

求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」と言っていますね。すでに予定は遂行されたのだから変更不可能だ、という意味です。

 

この祈りの意味を分かりやすい言葉に変えて書き直して見ましょう。

 

(天にいますわれらの父よ、)
世の中に真理というものがもしあるなら、見て聞きましょう。

(御名があがめられますように。)
その真理から目をそむけない自分自身であるように、

(御国がきますように。)
その真理へ立ち向かって進んでいく自分自身であるように、

(みこころが天に行われるとおり、)
上辺だけでなく、

(地にも行われますように。)
実践できる自分自身であるように、

(わたしたちの日ごとの食物を、)
虚飾ではなく

(きょうもお与えください。)
誰に何が必要であるかを知る努力をする自分自身であるように、

(わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、)
失敗を笑わず、

(わたしたちの負債をもおゆるしください。)
失敗を認めて反省する自分自身であるように、

(わたしたちを試みに会わせないで、)
しかし失敗を恐れず

(悪しき者からお救いください。)
立ち向かえる自分自身でもあるように努めます。

 

つまり、祈りとは、誰かに聞いてもらうようなものではなくて、自己啓発の手段なんだよ、と言っているわけです。カトリック正教会は、そのことを(少し)理解しているので、信者が勝手に考えて祈りを行う、という習慣が無いわけです。プロテスタントは、特に頭の悪そうな牧師ですが、長いほうが値打ちが上がると思ってか、同じようなことを何度もダラダラと言い続けていますよね。まさに「異邦人のように、くどくどと」祈っているわけです。しかし、実際にはカトリック正教会も似たようなものです。「ロザリオ」というものがありますが、あれも「異邦人のように、くどくどと」でしょうね。本質的にはどの教会も祈りの意味を理解していないのです。

 

「あなたのためにお祈りします」というフレーズ、聞いたことありませんか? 聞いたこと、というより言ったことがあるでしょう。殆どの人はあるはずです。あれの本当の意味は、「私はあなたが大嫌いだ。神様があなたを、私にとって都合の良い人間に変えてくださるようにお願いしておきます。」という意味です。そして、言う方も言われるほうも、そのことを承知しているはずです。

 

クリスチャンにとって実質的な祈りとは、他のクリスチャンを傷つけるための道具にすぎません。これが祈りの実態です。

天国

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人は死ぬと、生前の行状の善悪によって、天国へ行くか地獄かへ行くかに別れる。大まかに言って、これがキリスト教の共通の理解でしょう。教派間の細かい違いを考慮すると煩雑になりますので、ここではカトリックを代表として説明してみましょう。

人が死ぬと、まず「私審判」というものがあって、直ちに天国か地獄、あるいは煉獄というところへ振り分けられます。Wikiの説明を見てみましょう。

 

私審判 - Wikipedia

私審判とは、正教会カトリック教会で、人が死後に直ちに受けるとされる審判のこと。イエス・キリストの再臨後に人が受ける公審判とは区別される。 

 

「人が死後に直ちに受けるとされる審判のこと。」と説明されています。しかし「イエス・キリストの再臨後に人が受ける公審判とは区別される。」ともありますね。では「公審判」を確かめて見ましょう。

 

公審判 - Wikipedia

世の終りにはイエス・キリストの約束と復活の保証により、すべての肉身が復活する。 肉身の復活とは天主の全能によって、世の終りに、霊魂が再び元の肉身に合せられることであり、その根拠となる聖書箇所は「墓の中なる人々悉く天主の声を聞く時来らんとす。斯くて善を為しし人は出でて生命に至らんが為に復活し、悪を行いし人は審判を受けんが為に復活せん」(ヨハネ 5:28-29)である。


これを見ると、私審判での判決は公審判で覆される場合があるかのように思えます。私審判で天国行き判決があっても、公審判では地獄行きになる、またはその逆の場合もあるかもしれません。何のために私審判と公審判を別に行うのでしょうか。

答えは「最後の審判」の頁の説明にあるようです。見てみましょう。

 

最後の審判 - Wikipedia

最後の審判」という概念はキリスト教イスラム教に特有のものではなく、それより先発のゾロアスター教に既に存在している。ゾロアスター教の世界観では、世界は善なる神アフラ・マズダと悪なる神アンラ・マンユとの闘争の場として考えられており、最終的に悪が滅びた後で世界も滅び、その後、最後の審判が行なわれると考えられている。
ゾロアスター教最後の審判は、地上に世界の誕生以来の死者が全員復活し、そこに天から彗星が降ってきて、世界中のすべての鉱物が熔解し、復活した死者たちを飲み込み、義者は全く熱さを感じないが、不義者は苦悶に泣き叫ぶことになる。
一説には、これが三日間続き、不義者の罪も浄化されて、全員が理想世界に生まれ変わるとされる。別の説では、この結果、悪人(不義者)は地獄で、善人(義人)は天国で永遠に過ごすことになるとされる。 

 

どこかで聞いたことの有るフレーズです。そうです「クレド」とそっくりです。

 

ニカイア・コンスタンティノポリス信条 - Wikipedia

わたしは信じます。唯一の神、
全能の父、
天と地、
見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
主は、わたしたち人類のため、
わたしたちの救いのために天からくだり、
聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、
人となられました。
ポンティオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、
苦しみを受け、葬られ、
聖書にあるとおり三日目に復活し、
天に昇り、父の右の座に着いておられます。
主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。
その国は終わることがありません。
わたしは信じます。主であり、いのちの与え主である聖霊を。
聖霊は、父と子から出て、
父と子とともに礼拝され、栄光を受け、
また預言者をとおして語られました。
わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます。
罪のゆるしをもたらす唯一の洗礼を認め、
死者の復活
来世のいのちを待ち望みます。
アーメン。 

まるまるパクリですね。恥ずかしくなってしまうほどそっくりです。 

 

「天国」や「地獄」という概念は、純粋なユダヤ教には存在しませんでした。イスラエルの神は、人が生きている間のことだけを問題にする神だったのです。ですから、「私は『有る』である」、と言ったわけです。その意味は、周辺の偶像崇拝者たちのように、死後を云々するな、ということです。例えば、つぎのような箇所で死後を問題にする異教徒の習慣が批判されています。

列王記下16:3-4
彼はイスラエルの王たちの道に歩み、また主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべきおこないにしたがって、自分の子を火に焼いてささげ物とした。 かつ彼は高き所、また丘の上、すべての青木の下で犠牲をささげ、香をたいた。

たとえば、ローマ・ギリシャ神話においては、 エーリュシオン - Wikipedia という楽園が死後の世界として存在すると説明されていました。未だに死後の世界、特に地獄を「ハディス」と表現するキリスト教徒に会いますが、ハディスとは、このエーリュシオンに関係するギリシャ神話の神の名前です。

キリスト教ローマ帝国の国教にするにあたり、宗教としては主流派であったローマ・ギリシャ神話の信者たちは、このエーリュシオンに関する定義を手放してしまうことを良しとしなかったでしょうし、多数派であったゾロアスター教徒の終末思想を抹殺してしまうことも出来なかったのでしょう。無理やり両方取り込んでごちゃまぜにしてしまったのです。そんなわけで死後の定義が矛盾しているわけです。現行の「キリスト教」と呼ばれている宗教は、かんたんにいえば、ユダヤ教をキリスト伝説で脚色し、偶像崇拝を仕込んで迷信化したもの、ということになるでしょう。

そんななら別にキリスト教を国教にしなくても良かったじゃないか。そう思われたでしょうか。無理もありません。その通りです。

皇帝コンスタンティヌスキリスト教を公認したのは、彼の母ヘレナが元々狂信的なキリスト教徒だったからです。新興宗教カブレの母親からヒステリックに強要されて、頭を抱えて匙を投げたのでしょう。彼がもう少し強い男であれば、と悔やまれてなりません。