アルゼンチンで「コサカ クミコ」という日本人修道女が逮捕されました。自分の勤務する聴覚障がい者養護施設の児童を、性的な目的で神父に周旋したというのですから驚きです。以下にリンクしておきます。
しばやんの日々というブログに、「島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した」という記事があります。一部引用します。
まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当利杢左衛門覚書』)…
…
寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すように伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。
驚くべき内容です。切支丹が弾圧されたのは、彼らが犯罪者だったからなのです。放火、殺人、テロ、オウム真理教を上回る凶暴な組織、キリスト教の本質とはそういうものです。
テモテへの第一の手紙 2:9-14 に、次の記述があります。
また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。
女はみすぼらしい格好をして、黙って子供を産んでればいいんだ、と言っていますね。楽園で悪魔にそそのかされたのも女がバカだからだ、とまで言っています。
これがキリスト教の女性観なのです。
舘崎正二氏のブログに「キング牧師の不都合な真実」という記事がありますので一部ご紹介しましょう。『新潮45』2015年2月号で作家に掲載された井上篤夫による同名の記事の紹介であるようです。
1962年、FBIのフーヴァー長官は、ロバート・ケネディ司法長官から、キングの盗聴許可をとりつけた。
以降、キングの私的な生活はすべて把握されていく。
キングは自由への行進の演説をしたその晩、若い女の子を集めて乱交パーティをしていた。
これは1964年に収録されたケネディ大統領夫人のジャクリーンの発言で、2011年になって公開された。
ジャクリーンはキング牧師を「ペテン師」「セックス中毒」「最低の男」「バカ」とまで言っている。
ケネディ大統領が暗殺された葬儀の日もキングは盗聴されている。
キングは酔っぱらってTVで葬儀を見ながら嘲笑い、ジャクリーンがケネディの棺に接吻するのを見ながら、「本当はアソコにキスしたいんじゃないか」と発言している。
1964年、キング牧師がノーベル平和賞を授与されると報じられると、フーヴァー長官は緊急記者会見を開き、「キングはアメリカきってのウソつき野郎だ」と、何としても受賞を阻止しようとした。
同年12月10日、キングはノーベル賞授賞式の晴れの舞台に立つ。
その祝賀パーティが開かれたホテルにもFBIの盗聴器はしかけられ、乱交ぶりが記録された。
パーティ会場には高級娼婦が参加していた。また、キングは別のホテルで白人女を買ったともいう。
なんとも酷い男ですね。昔の聖人とかもこんな感じなんでしょうか。
日本キリスト教団は、プロテスタント教会の組合のようなものです。色々な教会が参加しています。
その中で、なかなかユニークな教会がありますのでご紹介しましょう。京都府長岡京市の「チャペル福音館」です。
「チャペル福音館の礼拝とは」から引用しておきましょう
聖餐式を中心とする礼拝は典礼重視なので、カトリックや聖公会のような形態をとります。
式文は日本基督(キリスト)教団、カトリック、聖公会の式文、
さらにリマ式文から牧師の神学的解釈を加えたチャペル福音館独自の式文を使い、
式文に則って礼拝をします。
香炉も振り、常に礼拝堂は香の香りに包まれています。
カンパヌラ(小鐘)も鳴らします。
牧師はカトリックや聖公会の祭服も着ます。
これらの祭服の大半はカトリックの典礼センターピエタのシスター達が、
一針一針真心を込めて廣畑牧師の為に作成して下さったものです。
これは目に見える福音です。
そして礼拝では、説教で聞いたみ言葉ついて黙想する時を必ず持ちます。
これは非常にプロテスタント的で、ルターの精神にも則っています。
黙想会を中心とする礼拝は静かな流れの中で神と向かい合う、祈りを中心とした礼拝です。
使徒信条、主の祈はもちろん、
カトリックのように天使祝詞(聖母マリアへの祈り)も祈ります。そしてここでもまた、聖書の解き明かしを聞いて、
分かち合うというプロテスタントの讃美歌も使いますが、
カトリックの讃美歌(典礼聖歌など)も使います。これらは決してカトリックの真似事ではなく、廣畑牧師が苦しみと悲しみの中で到達した信仰、
それが典礼を大切にすると言う信仰であったからです。
つまり、典礼を重視する信仰に救われたのです。カトリックに対する深い憧れと尊敬を持つ廣畑牧師ですが、
(カトリックも100%ではなく、まだまだ改革されなければならないであろうことも、
十分承知しております)
同時にルターの改革者としての精神をこよなく愛し、尊敬しているのです。
元来カトリックの伝統は決して福音から逸脱するものではないどころか、
福音そのものから来ているものでもあり、深い信仰を持った修道者であった宗教改革者 ルターの、
「聖書のみ、信仰のみ」の精神と全く対立するものではないと確信しているからです。
むしろ、典礼は霊性を高めてくれるものなのです。そして今の教会に必要なもの、それはカトリックの伝統から培った深い信仰と、
ルターの真の改革者としての精神なのであり、
それこそが今の停滞した教会を刷新してくれ、生きたものとしてくれると信じているからなのです。
それをまさに実践しているのが、チャペル福音館の礼拝です。典礼を大事にされる教職・聖職【日本基督(キリスト)教団、日本福音ルーテル教会、カトリック、聖公会】
の方々とのつながりがあり、
典礼を通して教派を越えた一致を目指しているのです。従ってチャペル福音館は、非常にカトリック的でもあり、プロテスタント的でもある。
また、カトリックでもなく、プロテスタントでもない。
つまり、枠を取っ払ったユニークな礼拝ですが、
これはキリスト教の原点、純粋そのもののような礼拝作りをしているという事であり、
現代のカトリックが説教の重要性を見直し、
プロテスタント教会が典礼(礼典)の重要性を見直している、
現代の教会の流れにまさに合致したものなのです。
色々な教会があって面白いですね。
Le Suicidé(エドゥアール・マネ、1877–1881年)
キリスト教においては基本的に、自殺は重大な罪だとされるが、キリスト教で自殺に対する否定的道徳評価が始まったのは、4世紀の聖アウグスティヌスの時代とされる。当時は殉教者が多数にのぼり、信者の死を止めるために何らかの手を打たねばならなくなっていた。また10人に1人死ぬ者を定めるという「デシメーション」と呼ばれる習慣のあったことをアウグスティヌスは問題にした。アウグスティヌスは『神の国』第1巻第16-28章において、自殺を肯定しない見解、自殺を罪と見なす見解を示した。神に身を捧げた女性が捕虜となって囚われの間に恥辱を被ったとしても、この恥辱を理由に自殺してはいけない、とした。またキリスト教徒には自殺の権利は認められていない、と述べた。「自らの命を奪う自殺者というのは、一人の人間を殺したことになる」とし、また旧約聖書のモーゼの十戒に「汝、殺すなかれ」と書かれている、と指摘し[115]、自殺という行為は結局、神に背く罪だ、とした。アウグスティヌスは「真に気高い心はあらゆる苦しみに耐えるものである。苦しみからの逃避は弱さを認めること」「自殺者は極悪人として死ぬ。なぜなら自殺者は、誘惑の恐怖ばかりか、罪の赦しの可能性からも逃げてしまうからだ」と理由を述べた。
693年には第十六回トレド会議(英語版)において自殺者を破門するという宣言がなされ、のちに聖トマス・アクィナスが自殺を生と死を司る神の権限を侵す罪であると述べるに至って、すでに広まっていた罪の観念はほぼ動かしがたいものになり[116]、自殺者の遺族が処罰されていた時代[117][118]や、自殺者は教会の墓地に埋葬することも許されなかった時代もある。
ダンテの叙事詩『神曲』においては、自殺は「自己に対する暴力」とされており、地獄篇の第13歌には醜悪な樹木と化した自殺者が怪鳥ハルピュイアに葉を啄ばまれ苦しむという記述がある。
ドイツの哲学者ショーペンハウエルは『自殺について』のなかで、キリスト教の聖書の中に自殺を禁止している文言はなく、原理主義的にいえば、自殺を禁じているわけではないため、「不当に貶められた自殺者の名誉を回復するべきだ」とした。
この説明によれば、聖書中の文言で、直接自殺を禁じているわけではなさそうです。むしろ原初的習慣に「デシメーション」なるものがあって、自殺することは殉教のように美徳であったことをうかがい知ることができます。
アウグスティヌスやトマス・アキナスが口を挟まなければ、本来通り、自殺は美徳であったわけです。このように、現状のキリスト教はオリジナルに不忠実なのです。
マタイによる福音書 第五章38-42節に次のような言葉があります。
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。
この「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」ということばについて、「REGINA PACIS」というサイトでは次のように解説しています。
今日の福音の一節、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい。(マタイ5:39)」は、とても誤解されている部分だと思います。多くの人にとっては、いや、クリスチャンにとってさえ、ガンジーのような無抵抗主義のことだと思われがちなのでは?
しかし、古代教会の偉大な教父のひとりであるアウグスティヌスは、「右の頬」は「天的or霊的な善いもの」、「左の頬」は「地上的or肉体的な善いもの」のことであり、「右の頬を守るために、左の頬を向けなさい」と説いています。言い換えれば、「この世的・肉的な善いものを犠牲にしても、天的・霊的な善いものを守りなさい」ということです。
これは、「右」や「左」がユダヤ文化で象徴すること、また、この一節があるマタイ5章全体を見ても、合致が行きます。
まず、ユダヤにおいて、「右」は「善いもの、力あるもの、優れたもの」、「左」は「悪しきもの、弱いもの、劣ったもの」を象徴しました。聖書の他の箇所を見ても、そのことは分かります。(創世記48:14やマタイ25:31-33等)
そして、マタイ5章全体を見ると、この章の一貫したテーマは、「天に入るための道」です。39節の前にも、5章の中では「救いへの道vs滅びへの道」対比が数多く書かれています。その文脈から言うと、まさにこの39節のポイントは、「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」ということであって、無抵抗主義を教えているのではありません。
聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。
この説明によれば、聖書に「もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」と記述されていれば「この世的なことは犠牲にしてでも、あなたの救いにとってもっと重要な天的なことを守りなさい」と変換して理解しなくてはならない、ということになるわけですが、それならば「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」はどう変換すればいいのでしょうか。また「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」というまとめにはどうつながるのでしょうか。
福音書がそんな暗喩で満たされているのなら、普通文に訳された「解訳版」が出回っているはずだとおもうのですが、そういうものは見たことがありませんね。
まあそういう箇所が全く無いとはいいませんが、たとえば黙示録なんかは確かに暗喩が沢山あります。しかし、この箇所はそのままの意味でしょう。ガンジーのような無抵抗主義を奨励しているのです。
しかし「聖書は、ある一部分だけを抜き出して都合よく引用してはダメ。全体的な文脈の中で解釈しなくては、間違った解釈になってしまいます。」と言いたくなる気持ちはわかります。そうとでも言っておかなければ、福音書には実行不可能な指示が沢山ありますからね(笑)。